生き方モデルの最大公約数とは?
【生活世界5】
昨日は、司法システムについて書いたけども、今回は実存的な話でも整理してみようかと思う。
☆生き方のモデルの最大公約数
『脳は0.1秒で恋をする 「赤い糸」の科学(茂木健一郎著)』という本を今日、最近、斜め読みしています。
恋愛のような、曖昧模糊で混沌なイメージを持ちやすい営みを科学的に切るような本がわりと好きだからなのですが。
この本では、恋愛の生理的な機構だったり、理想的な恋愛などについて、学術的な知見やフレーズを援用しています。
主旨は、「恋愛」というのは、偶有性(予測できることと、できないことが入り混じる性質)を帯びた人生を過ごすための「訓練の場」だと。
「恋愛力」=「人間力」=「さまざまな体験を積むこと」だとし、「偶有性の海へとびこもう」と言う。
実存主義のアンガーシュマンに近い考え方で、かつ多くの人間の人生の構えだと思われます。「人生、冒険してナンボでしょ」的な。自分は「そうあるべきだ」と説教された一人ですが。
「近所を散歩して、本を読んでれば、それでいい」とか言ったら、「そんなの80じいさんの言うことだ!」「楽しくないでしょ!そんなんじゃ」とか一蹴されたわけですが、ともあれ。
「実存は本質に先立つ」というサルトルのテーゼから、この(一般的)人生観について、その前提を掘り下げてみます。
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☆人生とは、「記憶の集積」という連続的人生観
「エターナル・サンシャイン」という恋愛(ファンタジー?)映画があります(以下、ネタばれ注意!ちょっと記憶違いがあるかもしれませんが)。
この映画の設定では、お金を出して、嫌な記憶を消すことができます。そこで、主人公の男は、元彼女の思い出をすべて消すことにするのですが、気が変わって、やはり消さないことにしたがります。
そこで、数々の記憶のシーンの中を移動しながら、記憶の中の元恋人と記憶が消されないようにあがきます。しかし、どんどん男の記憶は消されていきます。徹底的に記憶を消されることから逃走していたのですが、徐々に男は、「もう無駄だ」という諦念が形成されてきます。
そして、記憶の中の彼女とせめて、少しでも楽しいときをすごそうという発想になっていく。結局、元恋人との記憶はすべて消えてしまうわけですが・・・まあ、残りはDVDで。
自分は、「記憶を消されそうになり、徹底抗戦する男」の心理が、まるで、「末期がんに侵されて死に至る患者」の心理とオーバーラップするかのようだ、と思って見ていました。そこから思ったのは、「記憶=人生」なのだ、ということ。
思うに、上で整理したような、「経験を積むべきという人生観」においては、「記憶=人生」という自明の理のもとに、「偶有性の海」に飛び込んで、その結果としての「記憶」を肯定的なものとして、受け入れていく、ということが、重要だと言うのではないだろうか。
先の本では、「恋愛と機会費用」の関係でそのことが論じられています。
要約すると、「どの人と一緒にいるか、いないかという選択を考えるにおいても、「選ばなかった選択肢を選んだときの最大利益(=機会費用)」というものを考えるべきだ。逆に言えば、自分が選択したことについては、責任を持って、受け止めるべきだ」。
つまり、自分の責任で選んだことは、他人のせいにはしない、という当たり前のことです。
先のテーゼに戻ると、「実存は本質に先立つ」ので、人生や人間の本質などが先にあるのではなく、ともかく未来に自らを「企投」しなくてはいけない。
換言すると、どうなるか分からないことに自ら関わっていく。その結果を自分が引き受けていくことで、自らの本質が形成されていくというわけですな。
そして、その“本質”こそが、人生の証という見方が成立すると思います。サルトルの唱えたアンガーシュマンは、マルクス主義と結びついていたわけですが、面倒くさいので、ここでは言及しません。
サルトルのテーゼと先の本の引用から書いたことを自分なりにまとめると、
将来に向かって、自分を投げ出す。それに対する責任は自分が請け負う。しかし、そこで得た結果の蓄積は、自分の本質をつくるものであり、自らの人生そのものである、ということ。
この本では、まだ恋愛の効用が書いてあり、偶有的なものに対して、落ち着いて適切に判断できるか?ということも、大事だとしています。いわば、問題解決能力です。
また、偶有性に企投し続ける人間は、その結果に自らが研磨されるので、魅力的になる、とも。
というわけで、まとめ。
―連続的人生観とは?―
方法:将来に対して、いろんなことにチャレンジ・トライ(企投)してみる(責任は自分がとる)。
結果:1.思い出の集積が人生になっていく
2.問題解決力がつく
3.魅力が生まれる
これは、たぶんパンピーの生き方の最大公約数モデルだと思う。一度、定式化しておきたかったので、書いてみた。
でも、こうした「自己実現」的振る舞いを許されるのは、「こころの時代」に突入している、恵まれた国々の人々の生き方なのだ、と相対化しておくことにしよう。
トライする前段階については、また後日書こうかな。