殺しのテクノロジー=文明

【システム11】

特に書くこともないままに、模擬テストにおわれ、気づいたら、一ヶ月近くブログ更新をしていなかったわけですが、


来年の国家試験にむけての勉強のために、さらにブログの更新はなくなるでしょうが、まー気づいたことはだいたいメモにしてあるので、無問題です。


今日は、とあるドキュメンタリー映画の内容+感想、それと過去の文章を接続して書きます。


「いのちの食べ方」


このドキュメンタリー映画は、以前記事に書いた「無痛文明」―――快楽ばかりを与える社会を支える“暗部”ともいうべき、食品のベースが製造されるまでの工程を淡々と映し出した内容になっています。


その工程とは、非常にシステマティックであり、合理的に機能している点で一貫しています。


ひよこやりんごやじゃがいもは、同じようにベルトコンベアに乗せられ、運ばれ、豚や牛にはエサが、植物には農薬が、似たように機械で散布され、魚や豚が、同じように逐一内臓をかき出されます。


個人的には、牛たちが、電気ショックで殺害されるまでに、死におびえ、ぶるぶると暴れる様子が印象に残りました。言葉にならない言葉が、きこえない低周波として、おなかに響いてくるかのようです。


それらの映像が、特に音声もなく、固定カメラにて淡々と映し出されていきます。小津安二郎の映画にも似たカメラの定置は、映し出す対象物たちを、かなりリアリスティックに即物的に描きます―――小津監督の作品には、リアリズムとヒューマニズムがありますが、この作品にはリアリズムしかありません。映画のラストのエンドロールは、機械を洗浄する音を背景に流れていきます。


リアリズムだからこそ、そこから何を汲み取るのかは、個人の勝手。連想したことをいくつかかき出してみます。


1.文明は殺しのテクノロジー

2.理性による物象化。


2について。物象化とは、もともとマルクスの用語のようですが、これをテオドール・W・アドルノは、「人間のものの見方」だとしたようです。つまり、いちいち細かい差異などみないで、みな似たようなものだと見做してしまう―――認識対象の同一化といってもいいですが―――ことで、ものごとを簡単に捉えようとしてきたのだと。


それがもっとも顕著に顕れているのは、市場における商品の「交換」です。ひとつひとつの商品はよく見ると、違いがあるはずですが、すべて金銭でひとつ○○円という風に、画一化されています。


この映画を観て思ったのは、まさにこの工程のありかたは、物象化という理性の認識作用の反映だ、ということです。


すべては、食品のためのベースであり、ひとつひとつの差異などどうでもよく、上記のように、機械の部品をベルトコンベアで流すかのように、ぞんざいに扱われる。


1について。


「言語と思考と文明・文化」という記事にも書いたのですが、思考形態が、文明のありかたに反映されると。


「人間は、平和を愛すると同時に争いをも好む」と作家の曽野綾子さんが言っていますが、そのとおりだと思います。そして、その思考形態が、そのままこの映画で描かれているような形で実現しているわけです。


分かりやすくいうなれば、「仲間を愛すると同時に、他の種(=敵)との争いを好み、負かした種を支配する」ということですが。


他の種に、頭脳で打ち勝った人間という種は、他のどの動物よりも、優れている、という人間中心主義ともいえるようなイデオロギーをなんとなく持っています。


それの反映として、合理的に他の種を増やし、食糧難などにならないように次々と動物を殺戮し、システマティックに市場にそれらを商品のベースとして流します。


しかしながら、人間は他の種を支配するだけに飽きたらず、人間同士も当然のごとく争います。


国際政治学者のサミュエル・ハンチントンという人は、ポスト冷戦の世界情勢を「文明の衝突」という視点から、分析しているようです。


考え方の相違から、文化や文明の差異がうまれ、そこから衝突が起こってしまう。アメリカの同時多発テロ、いわゆる9.11という事件は、まさにそのことを象徴しているといえそうです。


まーこんなところか。では、また気が向いたら、書くことにしよう。


追記


スカイプにて知り合った友人に、「焼肉食べてから、この映画見たらいい」とか言ってみたら、「そんなん動物が殺されてかわいそうだとかクソみたいなこといいたいんやろ。そんな偽善みたいなのが一番クソだ」みたいなことを言われた。


少なくとも、その時点では「かわいそうだと思うべきだ。生き物のヒエラルキーの頂点にある人間として、問題意識を持つべきだ」などというお説教めいた考え方を持っているわけではなかったけれど


「じゃあ、何が言いたいのか」ってこともハッキリわからないままに口が動いていたことなので、とりあえず「いや、そんなん可哀想と思うか思わないかは個人の勝手であって。そうじゃなくて、自分の前に運ばれてきた肉と、その映像が結びついているってことよ」と言ったが、なんだか歯切れが悪くなった。


で後から言いたいことを再構成したら、それは「焼肉屋に行って運ばれてきた肉と、動物たちが殺戮される映像の内容が、結びついているってことを知ることで、世の中の裏側を知ってもらいたいってこと」。それ以上のことを言うと、彼のいうとおり、話が偽善めいてくるので、言わない。


じゃあなんで「世の中の裏側を知ってもらいたい」のか?適当な作文の裏の真意など云々しても自分でも仕方ないと思うけれど、


とりあえず、「現実変革力の有無はともかく、関心のない分野を減らすことは大事」っていう価値観を自分が持っているからだとしかいえない。


おわりー