音楽と言語の関係

【システム9】


昨日は、Skypeでマイミクの人とチャットしていた。バンドのボーカルをやっている人だ。よく考えれば、会ったことのないマイミクと同じ時間を共有するコミュニケーションは、はじめてだ。



そこで、いろいろな話題について雑談を交わしたけれど、ひとつ話題として、「音楽と言葉の関係性」というのがあがった。正確にいうと、「音楽の起源と言葉はどう関わってくるのか?」ということだ。ちょっとそのへんを今日は整理してみたい。



ふたつのレベルに分解して考えてみると、


1.生物学的な視点

2.文化的な視点


1。生物学的な視点について。


音楽は、人間のあらゆる文化に存在するが、逆に言って、人間に特異的な行為だ。


帰無仮説(null hypothsis)」という仮説がある。人類の言語能力が進化するにしたがって、副産物的な能力として、音楽的能力も高まったのではないか?という仮説だ。言語を操れるのは、基本的に人間だけであり、それを考えれば、さもありなん、とも感じられます。


関連する知識で言えば、絶対音感は、言語野で覚えているという。音感と言語能力の脳部位が共通する、というのは上記の仮説に照らし合わせて考えてみると、興味深い。


つまり、生物学的な視点から言えば、音楽は、言語能力が先にありき、ということになりそうだ。流れる旋律やリズムは、聴き手の感覚(クオリア)にダイレクトに働きかけてくることから、音楽能力は、音楽能力として独立しているように思われるかもしれないけれど、実は感覚をどうしても削いでしまう言語と関わってくる、というのはおもしろい。


個人的には、「部品」や「パーツ」を構築していくという作業が、音楽と言語では、共通しているのだと思う。かたや、旋律とリズム。もう一方は、単語にセンテンス。


音楽の本質性とは、リズムや旋律そのものというより、それらをどう構築するのか?というところにあるのではないだろうか、と思う。もちろんこれは、「作り手」視点の話であり、多くの聴き手からすれば、また意味合いが変わってくるはずだ。


そのことと関連することを、2と絡めて、考えてみます。


2.文化的な視点


ここでは、基本的に「人を心地よくさせる音階をまとめた音楽理論にしたがった旋律・リズムのまとまり」を「音楽」と呼びます―――あえて「調性音楽」「無調音楽」の区別はつけません。しかし、その中間にあたるような音楽(ノイズ・ミュージックなど)はここでは考えません。


上記の考え方からすると、「理論」が先にありきとなります。理論が構築される前、試行錯誤しながら、音をさぐりさぐり出していた状態の音の流れは、部分的に音楽と似通っているかもしれませんが、まだそれらは、音の羅列であり、「音楽」ではありません。


古代ギリシャでは、ピュタゴラスのまとめた音楽理論が定着し―――とはいえ、まだ和声の技術は高度だとされていたようではあるけれど―――主にモノフォニックな音楽が、作成されていたと考えられています。つまり、西欧古くでは、その頃すでに「音楽」が存在しはじめた、ということです。


中国では、前漢以降だと、「いかによい音楽をつくれるか?」ということで、専門的な楽書・楽誌が出されるようになったようです。


古代から音楽についての理論というものが、構築されていっているわけですが、音楽理論の構築のためには、数学的な厳密さによって、物事を説明する力が必要になってきます。それは高度な言語能力と近接する能力だと思われます。


適当に音を並べるだけでは、音楽だとは言えないのと同じく、幼児が喃語を話して、まともに言語を操る主体だとはいえません。音楽と言語の間には、ロジカルな「構築性」が通底しているのです。両者をつくる能力は、その意味でつながっています。


余談ですが、古代の音楽では、現在のような娯楽の意味合いではなくて、ある種の「秩序」を保つものでした。


古代ギリシャピタゴラス派においては、あっていい音楽は二種類しかないと主張します。人の情動を煽ったり、遊興に誘うような音楽はあってはならない。あっていいのは、戦いに行くときや、みんなが団結しなくてはいけないとき。それから平和なときに、より人の話に耳を傾けるためのピースフルなもの、というものです。


古代中国では、音楽の「楽」とは、「楽しむ」という意味より、人心に真心を伝える手段であり、時の権力者は、それを人民の統制のために利用しようとしていたようです。


人々の動向を秩序化するために、構築された理論にしたがった「音楽」が利用しようとしていた、ということになりますが、ただ適当に並べただけの音の羅列では、秩序化のためのツールにはならなかったでしょう。


音楽という営みは、聴き手にかなり感覚的な働きかけをしてくるものですが、作り手からすると、かなりロジカルな構築物だ、ということです。その点で、言葉をロジカルに組み立てて、相手を説得しようとする言語能力と似通った点があるということがいえる。


自分も、以前アコギで、実際につくろうとしたことがありますが、コード進行の制約から、単音の滑らかなつながりを考えなくてはいけなくって、大きなジグソーパズルにトライしている気分になっていたことを思い出します。


そんなわけで、言語能力と音楽を作る能力の近接性について、今日はつらつら書いてみました。