母子寮の人の話

【システム12】

ネットでの知り合いに、母子寮に住んでいる人がいる。


正確には、母子生活支援施設。


ネット上の日記にて、次のような悩みを書いていた。かなりまじめにタイトにまとめると、


隣に、未成年の母子が引っ越してきた。その母親が言うに、ケータイが使えないので、いろいろと不便だ。


親に勘当され、ケータイの契約を解約された。未成年だと契約無理だが、一度、籍を入れたのなら、契約はできるはずなので、自分で契約したらいいと思うけど、もし籍を外していたら、世帯主でも無理なのか?


昼間にちょこっと調べて考えたことを今補足して、簡単に書くと


未成年は、行為能力者(法的な責任をとる能力をもつ者)ではなく、制限行為能力者(責任を負いきれないとみなすが故に、法的契約が制限される者)なので、


法的契約をしたいのであれば、法定代理人を通じて、行わなければならない。


しかし、未成年であろうと、いったん婚姻して、籍を入れてしまうと、行為能力者とみなされる(成年擬制)ので、法的契約は制限されない。


では、籍をいったん外すと、成年擬制は解除になるのか?どうやら、調べてみると、成年擬制は、婚姻の解消によって、効力は失われない(通説)。


というわけで、この平成ママは、どうやらケータイ契約できそうです。ブログとかモバゲー、グリゲー楽しめますな。


しかし、母子寮なんて存在を初めて知った・・・。


http://zenbokyou.jp/boshi/index.html


↑上に包括的に説明されてます。


いろんな人と知り合うと、社会システムの一端が見えてきて、おもしろいです。


もっといろんな人と知り合うべきだ、と個人的に思う。

追記:その知り合いにこのことを教えたら、籍をいれてなかったらしい。ずこー

簡単に崩れ去るってこと

【生活世界13】


もう国家試験が終わり、無事就職できそうなので、またどうでもいい文章をだらだらと垂れ流すこととします。どうでもいいうえに面白く書かれた文章でもないので、ちゃらららん


縁がたまたまあった人とどういう関係性に転ぶかはわからないものですねって話。


自分はたいして友達もいないので、ネットのほうで話友達をつくったりしている。おまえは寂しいやつだな、といわれても否定できないわけですが、誰でも恵まれた立場にいられないのが、この社会ってものだよ。


精神的に余裕のある人だったら、受け止められることでも、余裕がなかったら、上記のような文章を読んで、「そんなもん甘えだコミュ力低くて努力の足りないお前が悪い」と説教したくなるのが人情ってものです。まあ、そんなに興味ないのが実態かうはー。


まあ、そんなわけで、国家試験が終わってからは、だらだらとネットで、コミュニケーションをとっていることが多くなった(主にスカイプで)。


今回話題にするのは、オフ会の話(ネットで、異性に会う系の話にそもそも拒絶感のある方は、この時点でブラウザの戻るボタンを押してください)。


3月は、手持ち無沙汰になる真空期間なので、もう一回、東京に誰かと遊ぼうと思っていたが、それはキャンセルになった。


候補は、京都のやつと、千葉の子。両方とも、スカイプで知り合い、友達になったので、去年の末、東京にて会ってきたのだ。会って、遊んできた経緯は省くが、どちらともフレンドリーに別れた(と自分は思っている)。


京都のやつは、春休みになったら、なんか東京行きたくなったから、また遊ぼうや!と言ってくれたのだが、その後、予定が変更になったらしく、横浜に泊りがけで、彼女と旅行に行くそうだ。


千葉の子は、もう二度と会わない気がする。


もう二度と会わないだろうという予感について、経緯を書く。


簡単なことで、「所詮、お前とはネットでのうっすいつながりにすぎないのであって、なぜ気を遣わなければいけないのだ」と言い放たれたことが原因。


昨日、彼女がスカイプに久しぶりにログインしていたので、「こんばんは」と話しかけたら、急にログオフ状態になった。


あれ、話したくなかったので、無視されたのか、と思った。とはいえ、なんだか嫌な気分にはなったので、「話しかけたら、急におちるのはどうなんだろうかどうなんだろうか」と打った。


わざわざこう書き込んだ経緯は、あちらからくれた最近の一本の電話が原因だ。


国家試験が終わり、学内採点が終わったので、学校に結果を聞きに言ったら、「合格」ということだったので、それを家族にメールで報告した。


ついでに、少なからず好意のあるその千葉の子にも、メールで合格した旨を報告した(今までもけっこう、メールをしていた)。ついでに、3月中に会えるかどうかも尋ねた。前に、DVDを貸してくれるという話をしてもらったので、それを建前として。


その日には、メールは返ってこなかった。だいたい、メールを送れば、夜中には来るので、「あれ、無視されたのか?」と思っていたら、翌日の午前中に電話が千葉の子からかかってきた。


「おめでとおおおお」とけっこう自分ごとのように、うれしそうな声で、祝福された。どうも、就活中の彼女のケータイのメールボックスは、企業からのメールでいっぱいになっており、こちらのメールを見つけられなかったようだ。


会うかどうかの話は、3〜4月中は、就職活動で忙しいので、5月ころになりそうだ、という話になった。それで、電話を切った。いろいろ心配したけれど、彼女との関係性は良好だと、そのとき思った。


で、今日、夕方に、チャットがきた(国家試験は終わってからは、学校に行く必要はない)。


「話したくなかったので、おちた すみません」と書いてあったので、


「チャットを送ったのは、機械じゃなくて、生身の人間なので、ひとこと声をかけてもらっていいかな?」と書いた。


人によって、何をされたら嫌だ、というのは違ってくるとは思うけれど、自分は「コミュニケーションをとろうと思った相手に、露骨に無視される」というのが、かなり嫌な気分になる。「今日は、話す気分じゃないから、ごめん」と一言いえば済む話じゃないか、ということだ。これは、別にリアルでも、男友達でも変わりない話。


すると、「そんなことくらいでムカつくんだったら、話しかけなきゃいいじゃん」ときた。


本人の中では「そんなことくらい」でも、他人のなかでは、けっこう重要だったりするものだ、と想定するのは、人間関係で基本じゃないのか?という疑問は差し置いておいて、


とりあえず、「いあいあwそれは最低限の礼儀じゃないかな?」と冷静なふりをして書いた。冷静なふりをして書いたものの、「この人、別人なのかな」と疑う気持ちさえ出てきていた。もともと、そういう攻撃的な物言いとは、無縁の人だと思っていたからだ。


スカイプに礼儀とかあんま感覚ないわ 所詮ネットじゃん」


たしかにそんなに面識のない同士だったら、そういう態度でもまだいいかもしれないけど、


しかし、なんどもチャットしたり、ボイチャしたり、メールアドレスを交換したり、試験が受かったことについて、わざわざ祝福の電話をくれたりするような仲の人(しかもついこの前)に、「所詮ネットじゃん」と、切り捨てられるのは、個人的に納得いかないし、一般的にも「変」じゃなかろうか。自分が知らないうちに、何かしてしまったのか??と疑ってしまいたくなる(その祝福電話以降、何も連絡をとっていない)。


この人のなかでは、いくら親しいフリをしていても、ネットでのコミュニケーションだったら、そんな仮面は脱ぎ捨てていいってことなのか?


とりあえず、「まあ、そうだけど、一度会って話したり、今までいろいろ話したわけで、まったく匿名の人間ってわけではないでしょう」

「ネットという媒体になったら、急に社会性に欠ける態度をとってもいいという話になるのはおかしいよね」

「就職活動で忙しくなって、イライラしてるのかもしれないけど、別にイラつかせようとしてチャットとばしてるわけではないので、了解くらさい」


とまともな人っぽい返事を送ったら、返事はこなくなった。


正直、相手の反応の整合性がなさすぎて、自分の中でどう消化したらいいのかよくわからない。もとからこっちを拒絶したい気持ちだったら、わざわざ国家試験が受かったことについて、「おめでとう」と電話しないはずじゃないのか?なんでそういう反応に転んだのか、さっぱり想像できない。


少々、差別的なことを書くなら、「メンヘラ女だから」って話に還元してもいいけれど、結局、自分の中で消化する理由付けにしかならない。メンヘラって定義もあいまいだけど。


チャットしていても、「なんか精神状態がおかしい 死にたい」とか言ってきたり、ネット上の公開日記とかで、人生詰んだと書いてたりするから。そのたびに、フォローするようなことを言ってきたつもりではある。無駄だったけどw


まあ、自分以外には人事なので、その程度の理由付けでいいのかもしれない。メンヘラが嫌いだ、と言っていた知り合いの気持ちがなんとなくわかってしまった。親しい関係を築いたと思っても、「フリ」でしかない、怖さ。


全然違う視点で言えば、若者のコミュニケーションがフラット化してきているなんて話があるけれど、いくら親しくなったつもりでも、「つもり」を超えられないのが、ネットコミュニケーションなのかもしれない。


ここまで、読んだ奇特な人のなかには、「なんでさっさと関係を切らないのか?」とイライラした人がいるかもしれないけれど、そういう発想の仕方こそが、濃い関係性をつくれず、薄い関係性に留まる「コミュニケーションのフラット化」の影響だ、と思う。


話を単純化すれば、「ネットである程度なかよくなった子が、かなりささいなことで、急に冷淡になった」という、かなりつまらない話になってしまうけれど、積み上げてきたものっていうのは、ささいなことで瓦解してしまうのだなあ・・・と青い自分が悟りかけるチャンスではあった。


まあ、この関係がどう転ぶのか、もう少しだけ、その推移を人事のように眺めてみたい。

殺しのテクノロジー=文明

【システム11】

特に書くこともないままに、模擬テストにおわれ、気づいたら、一ヶ月近くブログ更新をしていなかったわけですが、


来年の国家試験にむけての勉強のために、さらにブログの更新はなくなるでしょうが、まー気づいたことはだいたいメモにしてあるので、無問題です。


今日は、とあるドキュメンタリー映画の内容+感想、それと過去の文章を接続して書きます。


「いのちの食べ方」


このドキュメンタリー映画は、以前記事に書いた「無痛文明」―――快楽ばかりを与える社会を支える“暗部”ともいうべき、食品のベースが製造されるまでの工程を淡々と映し出した内容になっています。


その工程とは、非常にシステマティックであり、合理的に機能している点で一貫しています。


ひよこやりんごやじゃがいもは、同じようにベルトコンベアに乗せられ、運ばれ、豚や牛にはエサが、植物には農薬が、似たように機械で散布され、魚や豚が、同じように逐一内臓をかき出されます。


個人的には、牛たちが、電気ショックで殺害されるまでに、死におびえ、ぶるぶると暴れる様子が印象に残りました。言葉にならない言葉が、きこえない低周波として、おなかに響いてくるかのようです。


それらの映像が、特に音声もなく、固定カメラにて淡々と映し出されていきます。小津安二郎の映画にも似たカメラの定置は、映し出す対象物たちを、かなりリアリスティックに即物的に描きます―――小津監督の作品には、リアリズムとヒューマニズムがありますが、この作品にはリアリズムしかありません。映画のラストのエンドロールは、機械を洗浄する音を背景に流れていきます。


リアリズムだからこそ、そこから何を汲み取るのかは、個人の勝手。連想したことをいくつかかき出してみます。


1.文明は殺しのテクノロジー

2.理性による物象化。


2について。物象化とは、もともとマルクスの用語のようですが、これをテオドール・W・アドルノは、「人間のものの見方」だとしたようです。つまり、いちいち細かい差異などみないで、みな似たようなものだと見做してしまう―――認識対象の同一化といってもいいですが―――ことで、ものごとを簡単に捉えようとしてきたのだと。


それがもっとも顕著に顕れているのは、市場における商品の「交換」です。ひとつひとつの商品はよく見ると、違いがあるはずですが、すべて金銭でひとつ○○円という風に、画一化されています。


この映画を観て思ったのは、まさにこの工程のありかたは、物象化という理性の認識作用の反映だ、ということです。


すべては、食品のためのベースであり、ひとつひとつの差異などどうでもよく、上記のように、機械の部品をベルトコンベアで流すかのように、ぞんざいに扱われる。


1について。


「言語と思考と文明・文化」という記事にも書いたのですが、思考形態が、文明のありかたに反映されると。


「人間は、平和を愛すると同時に争いをも好む」と作家の曽野綾子さんが言っていますが、そのとおりだと思います。そして、その思考形態が、そのままこの映画で描かれているような形で実現しているわけです。


分かりやすくいうなれば、「仲間を愛すると同時に、他の種(=敵)との争いを好み、負かした種を支配する」ということですが。


他の種に、頭脳で打ち勝った人間という種は、他のどの動物よりも、優れている、という人間中心主義ともいえるようなイデオロギーをなんとなく持っています。


それの反映として、合理的に他の種を増やし、食糧難などにならないように次々と動物を殺戮し、システマティックに市場にそれらを商品のベースとして流します。


しかしながら、人間は他の種を支配するだけに飽きたらず、人間同士も当然のごとく争います。


国際政治学者のサミュエル・ハンチントンという人は、ポスト冷戦の世界情勢を「文明の衝突」という視点から、分析しているようです。


考え方の相違から、文化や文明の差異がうまれ、そこから衝突が起こってしまう。アメリカの同時多発テロ、いわゆる9.11という事件は、まさにそのことを象徴しているといえそうです。


まーこんなところか。では、また気が向いたら、書くことにしよう。


追記


スカイプにて知り合った友人に、「焼肉食べてから、この映画見たらいい」とか言ってみたら、「そんなん動物が殺されてかわいそうだとかクソみたいなこといいたいんやろ。そんな偽善みたいなのが一番クソだ」みたいなことを言われた。


少なくとも、その時点では「かわいそうだと思うべきだ。生き物のヒエラルキーの頂点にある人間として、問題意識を持つべきだ」などというお説教めいた考え方を持っているわけではなかったけれど


「じゃあ、何が言いたいのか」ってこともハッキリわからないままに口が動いていたことなので、とりあえず「いや、そんなん可哀想と思うか思わないかは個人の勝手であって。そうじゃなくて、自分の前に運ばれてきた肉と、その映像が結びついているってことよ」と言ったが、なんだか歯切れが悪くなった。


で後から言いたいことを再構成したら、それは「焼肉屋に行って運ばれてきた肉と、動物たちが殺戮される映像の内容が、結びついているってことを知ることで、世の中の裏側を知ってもらいたいってこと」。それ以上のことを言うと、彼のいうとおり、話が偽善めいてくるので、言わない。


じゃあなんで「世の中の裏側を知ってもらいたい」のか?適当な作文の裏の真意など云々しても自分でも仕方ないと思うけれど、


とりあえず、「現実変革力の有無はともかく、関心のない分野を減らすことは大事」っていう価値観を自分が持っているからだとしかいえない。


おわりー

ライフワークバランス

【システム10】


浅野いにおの漫画を読んでいると、ついつい人生のことについて考えてしまう。最近読んだのは、「おやすみプンプン」。プンプンという少年(?)の成長を描いたマンガ。


二個前の記事で、「快に満ちた文明」で書いたけれど、創作品に、快楽消費的な生き方を見直すような生き方のヒントを与えるようなファクターを組み込むというありかたが、浅野いにおの作品には見られる気がする、というほど多くは読んではないけど。


でも、仕事で忙しかったりする人もたくさんいるわけで、そんな人は、「こんな生き方でいいのだろうか」とふと疑問を覚えたり覚えなかったりで、「とりあえずは、目先のことをやり遂げないと」と言って仕事に励み、その代わりに、思考停止しちゃうパターンなのだろうと思います。


そんな状態に抗するための考え方が「ライフワークバランス」ってやつで、今日はそれについて、考えてみます。


「ライフワークバランスが崩れる」という場合には、たいてい就労時間が長くなって、私的な時間があまり取れない状態を指していると思います―――ニートの人が、「仕事をしていないので、ワークライフバランスが崩れている」とは言うとは考えにくい。


就労時間は、「パブリックな時間」であり、それ以外の時間は、「プライベートな時間」です。この言い方で言うと、「ワークライフバランスが崩れる」とは、「プライベートな時間」に「パブリックな時間」が侵食している、ということになります。


とりあえず、ここで、「公私二分」について、整理していきます。


☆<public><private>と「公私」の意味のズレ


そもそも、英語と日本語の「公私」のオリジナルの意味は、それぞれずれているらしい。


日本におけるもともとの「公私」は、共同体の大小・上下関係に応じて、つけられる。


<public><private>においては、公権力や公衆などのパブリックなものと、プライベートな領域を分ける権利と意味が結びついている―――日本的な意味での「公私」は、「おおやけ」が「わたくし」に介入することがある。


英語の意味での「公私」が空間的に根付くことになったのは、交通手段の高度化があるようだ―――以前、スカイプでチャットした大学生が、「空間社会学」をベースに論文を書いているといい、その内容が、上記に述べたことだ。つまり、自宅と仕事場の分離。


つまり、抽象的な権利や、上下関係、共同体の規模に還元できる「公私領域」と空間的な「公私領域」がある、ということだ。


ワークライフバランスが崩れる、ということは、「公」が「私」に侵食すること、と述べた。言い換えれば、「公」が「自分」を拘束して、「私」に戻れる時間を減らしてしまう、ということだ。詳論は、「働きすぎの時代(森岡孝二著)」。


英語の意味での峻別される「公私」が日本的な意味での境界のハッキリしない「公私」にシフトしてきていることが、「ワークライフバランスの崩れ」ではないだろうか、っていうこと。つまり、峻別されるべき「公私」が、境界線のあいまいな「公私」関係になってきている、ということ。


だからこそ、英語的な意味での「公私」の理念を守らなくてはいけない、というのが、労働権を守るっていう意識なのだと思います。具体的・個別的な話に関しては、さんざ本などが出ているはず。


別に、ただの言葉遊びみたいなもので、たいしたことは言っていないけれど、「公私」という概念の整理と「ワーク・ライフ・バランス」の関係について、書いてみた。

音楽と言語の関係

【システム9】


昨日は、Skypeでマイミクの人とチャットしていた。バンドのボーカルをやっている人だ。よく考えれば、会ったことのないマイミクと同じ時間を共有するコミュニケーションは、はじめてだ。



そこで、いろいろな話題について雑談を交わしたけれど、ひとつ話題として、「音楽と言葉の関係性」というのがあがった。正確にいうと、「音楽の起源と言葉はどう関わってくるのか?」ということだ。ちょっとそのへんを今日は整理してみたい。



ふたつのレベルに分解して考えてみると、


1.生物学的な視点

2.文化的な視点


1。生物学的な視点について。


音楽は、人間のあらゆる文化に存在するが、逆に言って、人間に特異的な行為だ。


帰無仮説(null hypothsis)」という仮説がある。人類の言語能力が進化するにしたがって、副産物的な能力として、音楽的能力も高まったのではないか?という仮説だ。言語を操れるのは、基本的に人間だけであり、それを考えれば、さもありなん、とも感じられます。


関連する知識で言えば、絶対音感は、言語野で覚えているという。音感と言語能力の脳部位が共通する、というのは上記の仮説に照らし合わせて考えてみると、興味深い。


つまり、生物学的な視点から言えば、音楽は、言語能力が先にありき、ということになりそうだ。流れる旋律やリズムは、聴き手の感覚(クオリア)にダイレクトに働きかけてくることから、音楽能力は、音楽能力として独立しているように思われるかもしれないけれど、実は感覚をどうしても削いでしまう言語と関わってくる、というのはおもしろい。


個人的には、「部品」や「パーツ」を構築していくという作業が、音楽と言語では、共通しているのだと思う。かたや、旋律とリズム。もう一方は、単語にセンテンス。


音楽の本質性とは、リズムや旋律そのものというより、それらをどう構築するのか?というところにあるのではないだろうか、と思う。もちろんこれは、「作り手」視点の話であり、多くの聴き手からすれば、また意味合いが変わってくるはずだ。


そのことと関連することを、2と絡めて、考えてみます。


2.文化的な視点


ここでは、基本的に「人を心地よくさせる音階をまとめた音楽理論にしたがった旋律・リズムのまとまり」を「音楽」と呼びます―――あえて「調性音楽」「無調音楽」の区別はつけません。しかし、その中間にあたるような音楽(ノイズ・ミュージックなど)はここでは考えません。


上記の考え方からすると、「理論」が先にありきとなります。理論が構築される前、試行錯誤しながら、音をさぐりさぐり出していた状態の音の流れは、部分的に音楽と似通っているかもしれませんが、まだそれらは、音の羅列であり、「音楽」ではありません。


古代ギリシャでは、ピュタゴラスのまとめた音楽理論が定着し―――とはいえ、まだ和声の技術は高度だとされていたようではあるけれど―――主にモノフォニックな音楽が、作成されていたと考えられています。つまり、西欧古くでは、その頃すでに「音楽」が存在しはじめた、ということです。


中国では、前漢以降だと、「いかによい音楽をつくれるか?」ということで、専門的な楽書・楽誌が出されるようになったようです。


古代から音楽についての理論というものが、構築されていっているわけですが、音楽理論の構築のためには、数学的な厳密さによって、物事を説明する力が必要になってきます。それは高度な言語能力と近接する能力だと思われます。


適当に音を並べるだけでは、音楽だとは言えないのと同じく、幼児が喃語を話して、まともに言語を操る主体だとはいえません。音楽と言語の間には、ロジカルな「構築性」が通底しているのです。両者をつくる能力は、その意味でつながっています。


余談ですが、古代の音楽では、現在のような娯楽の意味合いではなくて、ある種の「秩序」を保つものでした。


古代ギリシャピタゴラス派においては、あっていい音楽は二種類しかないと主張します。人の情動を煽ったり、遊興に誘うような音楽はあってはならない。あっていいのは、戦いに行くときや、みんなが団結しなくてはいけないとき。それから平和なときに、より人の話に耳を傾けるためのピースフルなもの、というものです。


古代中国では、音楽の「楽」とは、「楽しむ」という意味より、人心に真心を伝える手段であり、時の権力者は、それを人民の統制のために利用しようとしていたようです。


人々の動向を秩序化するために、構築された理論にしたがった「音楽」が利用しようとしていた、ということになりますが、ただ適当に並べただけの音の羅列では、秩序化のためのツールにはならなかったでしょう。


音楽という営みは、聴き手にかなり感覚的な働きかけをしてくるものですが、作り手からすると、かなりロジカルな構築物だ、ということです。その点で、言葉をロジカルに組み立てて、相手を説得しようとする言語能力と似通った点があるということがいえる。


自分も、以前アコギで、実際につくろうとしたことがありますが、コード進行の制約から、単音の滑らかなつながりを考えなくてはいけなくって、大きなジグソーパズルにトライしている気分になっていたことを思い出します。


そんなわけで、言語能力と音楽を作る能力の近接性について、今日はつらつら書いてみました。

快に満ちた文明

【システム8】


憩室炎で入院した祖母の手術も先日、無事終わり、ようやく今日には点滴が外れた。母は病院に泊まらなくても済むようになった。


祖母と同室の高齢の女性について、母が「足が枯れ枝のよう」といいながら、「自分はああはなりたくないから、意識のあるうちに、(リビングウィル)書いておこう」と言っていた。


「もう痰を管で(吸い)とるときなんか、涙流してるんだよ。あんなの見たら、さっさと死んだほうがいい(と思う)」


地元の病院は、よくある老人病院だ。ほとんどが高齢者で、寝たきりの入院患者が検査のために、ストレッチャーで運ばれる様子はしばしば見られる。自分は、その病院に実習しにいっていた当時、中間登校日で会ったクラスメートに冗談で、「死臭が漂ってる」と言ったが、その印象は全面的に間違ってはいないと思う。


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2ちゃんねるで、たまたま「介護職で働いてるけど・・・」というまとめスレを読んだ。


老人の介護は、汚物の処理と隣り合わせにあることが伝わってきた。で、最後にスレ主がこう書いていた。


「じじいばばあになっちまえば後はゆっくりと自分の肉体が朽ちていくのを見守るだけさ・・・だからみんなは若いころにハメをはずしてやりたい放題するべきだと思うんだな」


「聞いた話」に過ぎないけれど、ひたすら病院や介護施設に拘束されて、思い通りにならない体で、ただただ死ぬまで生きていく・・・という老年観を持っているわけですが、これは別に特殊なイメージではないでしょう。


加えて、認知症で、周囲の世界をうまく認識できずに不安になり、叫ぶ、汚物を手でこねるとか、拘束具を着せられ、鼻からチューブで流動食をただただ流し込まれるとか。


そんな老年を乗り切るには、どうしたらいいのかってことで、普通の人が思いつくことが、「自由で若い頃に、いろいろ楽しい思い出をつくって、それを思い出すこと」じゃないだろうか。


その論理でいえば、「若いうちが華」であり、若くなくなったら、人生を楽しむことはできない。しかも、少なからず若いうちにたいして快楽的な生き方をしていない(自分のような)人々は、人生で楽しい時期もないまま死ぬのを待っているだけ、というかなりペシミスティックな話になってしまう。いや、それを受け入れたい人は、受け入れたらいいけど。


ともあれ、そんな病院や介護施設は、「姥捨山」だと形容されることもあるくらいだ。


一方、「若さ=新奇さ」を喧伝するマスメディアを中心としたアジテーションが、高度な消費文化を支える―――なんていっても、おおげさな話ではなくて、自分たちの消費活動そのものだ。ファッション雑誌見て、「今年の流行はコレ!」というものを身につけるとか、朝のニュースで、「最近流行の○○は〜」と放送されたものを買う。ただそれだけのこと。


なんだか、このギャップが、やけに不気味だ。ほとんど単一民族で、諸外国と比べてたいした文化的衝突もない日本ですら、この断絶を頭のなかで相互に比べてしまうと、なんだか寒気がする。


自分の単純なこの現実感を図式的に言うと、かたや消費文化に身をゆだね、そこでの自己実現を図ろうとする人々。かたや“姥捨て山”に拘束され、死を待つだけの存在。かなりの断絶があるにもかかわらず、この二層は、不可逆的な時間の流れにがっちりつながれている。もちろん、こんなシンプルな図式に収まりきらない「現実」も少なからずあるだろうけれど。


まるで、死臭のただよう老年には、見えないベールがかかっていて、何も知らない人々は、享楽的に、真面目に考えずに、老年に向かうエスカレーターに乗っている。たぶん、自分もそのうちのひとりだ。


こんな文章を書いてるくらいだから、半分くらい目が覚めかけているのかもしれないけど、完全に覚醒しているというわけでもない。たぶん、本当に目が覚めたら、仏教的な意味で、悟りを開いているだろう。


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そんな現状を分析した最近の本では「無痛文明論」というものがあるようだ。


http://www.book-navi.com/book/syoseki/mutu.html


要約は上記のページにゆずるとして、多少自分が思ったことを書き添えたい。


前回の記事では、思考が文明・文化を形作るものだ、と書いた。これは養老孟司氏がいうところの「脳化社会」「意識中心主義」だ。


人間の思考は、「死にたくない」から始まって、「5感を刺激したい」という欲望に貫かれている。それに加えて、それらを得るための「破壊欲」が加わると、仏教のいうところの「渇愛」と呼ばれるこころのことを指します。


その思考が生み出した社会が、「無痛文明」だ。快楽を増幅し、苦痛を見えなくする文明。ハイデガーっぽく言えば、「文明が頽落している」という感じだろうか。


無痛文明論」を書いた森岡氏は、「身体の欲望」と「生命の欲望」という風に欲望をふたつに分けて説明している。前者は表層的な気持ちであり、深層的には所有物をすてて、幸せになろうとする「生命の欲望」がある、という。


まるで、キリスト教の教義の焼き直しにも聞こえるけれど、明らかに違う点は、禁欲的になりたがる反欲望的な欲望がある、と森岡氏が想定している点だ。キリスト教の場合は、「身体の欲望」にこうして、善を行う「自由意志」がある、という話なので。


ともあれ、この議論が宗教的な話に近接していることは否めない。とはいえ、快楽主義者というわけでもないし、仏教的な思考に慣れている自分には、この議論にはなじめる。それを徹底できるかどうかは別として。


ちょっと面白いと思ったのが、娯楽産業の内部に、自分の人生を自省するような装置を仕掛ける、というアイデア。たとえば、映画が、ただの娯楽ではなく、何か人生について考え直させるような内容のものを多くするとか。


とはいえ、そういったアイロニーに富む作品など、現代日本では、望むべくもないのかもしれない。娯楽とアイロニーは水と油だからだ。娯楽を追及しないと、金にならないわけだから、これは現実的には難しい。


齋藤孝氏は、著書「退屈力」のなかで、このような社会を「高度刺激社会」と呼んでいるけれど、個人のレベルで、そのような社会に対抗するには、地味な練習でも積み上げて努力することで、技を磨き、本当の感動を手に入れることだ、と主張する。


自分の場合、コミュニケーションの型とかを考えたり、アイデアを一年以上書き留めてストックしていることを続けている。それは、分析対象に対して、なるべく誠実に厳密に、また柔軟に多面的に考えられるようなスタイルの醸成につながっている、と思う。それが、内面的な自信につながっている気がする―――他人から見て、そう見えるかどうかは別問題。


とりあえず、過度に快楽に浸るのではなく、地味な活動にこそ、充実感を感じられる生き方を模索していきたいと思う。後悔しない人生とは、「日々是好日」を積み重ねていくことではないだろうか。


まとめ 

☆死や老いは、生を反照する。

☆内面的な技を得られるような生き方をする。

デジタル思考

【生活世界12】


「自分のことを知ることは、大事だ」というテーゼがある。


何故大事なのか簡単に書けば、「自己形成の土壌」をつくるためと言ったところか。


1.自分が、何を許せて(看過できて)、何を許せないのか知るため(対象は、人間の言動、システム)

2.自分が望むものを知らせるため(アイデンティティを提示する)


1も2も、その境界線は、恣意的であいまいだ。何をどこまで許せるか、許せないか。何が好きで、何がどうでもよくて、何が嫌いか。


だからこそ、どうそれらを動かしたら、幸せになるのか、不幸になるのか、という内面操作的な戦略を立てられる。少なくとも、好みの境界線を知るためには、「経験」を言葉に置き換えることだと思う。


それで「私は、○○が好きで、嫌いだ」となる。そして、その境界線を書き換えるには、今までしたことのないことにトライ・チャレンジしてみるしかないのだろう。


こういうことを意識していると、自分と他人が異なる存在である、という至極当たり前の事実を意識しやすくなる。何が好きで嫌いか、ということもあるし、好き嫌いの対象が、同じものでもその感情の強さには、グラデーションがある。


ところが、欲求が先鋭化してくると、0か1のデジタル思考になっていまいがちだ。加えて、それが普遍的な欲求であるとされるものほど、「みんなと俺の欲求の強さは同じくらいのはず」と思い込む。欲望を標準化してしまう。


食欲とか性欲とか、承認欲とか。


たとえば、知人に「この前、ブログで結核菌のこと書いた」といったら、「そんなカタイこと書いたら、誰もコメントしてくれへんやろ」と言われた。


その人の中には、「普通は、自分の書いたものに何かレスをつけてほしいものだ」という思い込みがあるわけだ。自分の場合、mixiのような馴れ合いのやり取りだったら、大体が好意的なものだと思われるのでいいけど、


そういう横のつながりがまったくなくて、どこの誰から見当はずれな言いがかりをつけられるのか分からない環境だと、あんまりコメントしてもらいたくない、と思ったりする―――実際に、以前書いた記事にブクマが10個くらいついていたことがあったけど、好意的なものは1つで、あとは意味不明だったり、悪意的だったりする。人畜無害なのはいいけれど。


じゃあ、なんでブログに書くのかといったら、「誰がこのページを見ているのか分からない」という不確定感が頭を刺激し、書く意欲につながるからだ。そして、いろいろ書く中で、発見することがある。知っているものの組み合わせのはずが、途中で面白いアイデアが産まれたりする。そのためだけだ。


というと、冷たい感じがするけれど、フェース・トゥ・フェースの親密な付き合いじゃないのだから仕方ない。ある程度、道具的にモニター先の人を利用してしまうのは、ネット上だったら、誰でもやっていることなので、いちいち言うことでもないけれど。


というわけで、ここまでがイントロダクション。


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コミュニケーションにこだわる理由。


けっこう自分はコミュニケーションの方法にこだわるが、それは人間関係の目的に関係していると思う。


だいたい、自分は3つに分けている。

1.安心
2.協力
3.学び


おしゃべりであれば、1。議論や対話や連絡であれば、2や3。
目的と方法はセットだ。これらが混線すると、コミュニケーションの意味がなくなる、と思う。


どうでもいいおしゃべりに、真面目な議論のモードで話されたり、逆に真面目な議論のときにまったく関係ない茶々を入れられると、イライラする。前者は、無神経な合理主義だし、後者はうるさい感情論だ。どちらもそれぞれのコミュニケーションの目的を阻害する。


ともかく、自分はコミュニケーションに神経質気味に「正常性」を求めてしまう人間である、ということを自覚しておこうと思ったので、書いた。


なぜ神経質になるのかはひとまず置いておくにしても、ともあれ、うまく欲求を叶えようと思うほど、人は0や1というようなデジタル思考で物を考えてしまう、ということだ。自分の場合は、コミュニケーションというものを分析して、場合わけしているが、これはデジタル思考だと思う。


ホルクハイマーのいうところの「主観的理性」が発達してしまう、というべきか。俗っぽい例でいえば、ナンパ師が、どうすればより多くの女の子をゲットできるのか、ノウハウをルーチン化しているみたいな話だ。


そこまでならいいのだけれど、やっかいなのは、前述のように「他人も自分と同じように思っているはず」という思い込みだ。たとえば、ブログのアクセス数を増やそうと躍起になっている人からすれば、このようなカタイことばかりを書き出しているこのようなブログは、「なぜこんな誰も読まないようなことを書くのか?もっとウケるようなこと書けばいいのに」という話になる。


一応書いておくと、自分の場合、「誰かに読まれている可能性がある」というだけで十分なのであり、実際に多くの人に読まれるか、理解されるかどうかはどうでもいい。


「お前が書くことなど、どうでもいい」という他者の声を強く内面化しているせいだろう。実際、多くの人にはウケないことを書いていることは自覚している。


というわけで、このブログを読んだところで、大体の読み手には、たいしたメリットもデメリットもないでしょう。有名になりたいとか、自分のスタイルとか、見識の正しさを世の中に主張したい人であれば、上記のことなんて、想像もできないだろうけど。


有名人などであれば、好感度が大事になってくるので、モノローグ的な書き方かダイアローグ的な書き方かに関わらず、自然とポジティブな書き方になるだろうけど、匿名性に埋もれてまったく無に等しいこのブログにおいては、法に触れない限りで、好き勝手書く。


こう書いても、投影してしまう人というのは、「承認欲求が挫折してしまったせいで、こんなあきらめたようなことを書くんだ。情けない。もっと読んでもらえるように工夫してアピールする努力もしないで」という話に回収してしまう。あるいは、はっきりとは書かないけれど、「あんまりレスをもらいたがらない変人もいるようですが・・・」みたいな間接的な皮肉とか。


こういうのが嫌だから、コメントとか、ブクマの一言が欲しくなくなるわけですが笑


まあ、そんなところで、今日はここまで。