言語と思考と文明・文化

【システム7】

最近は、かなり寒くなってきました。手足が冷えます。でも、頭は関係なく働くわけで、働く頭で、ちょっと大きなことを考えてみます。


☆言語→思考→文明


はじめに断っておくと、特に英語圏のあり方を持ち上げる目的の文章ではありません。


人間の思考能力というものは、大きくその言語の特性に規定される、という考え方があります。


ドイツで、「教養」という概念を首唱したヘルダーや、フンボルトという人は、思考と言語が不可分の関係にあると主張したようです。


たとえば、英語圏のコミュニケーションはロジカルで、日本のコミュニケーションは、情緒的になりやすい、というイメージがあります。


喋るときには、微妙に思考します。人によって、全部考えてから喋る人もいれば、考えながら同時に喋る人もいるでしょうけれど。


その際には、上記の考え方に従えば、言語的特性の影響を受けていることになります。たとえば、英語という言語は、複文構造になっています。つまり、いくつも主語や述語がでてきても、結局、ひとつの文章にすることができます。その文章は、階層的です。


そこがロジカルになれるところと思います。逆に日本語では、主語や目的語を必要に応じて、省くことが多いです。かなりファジーな言い方になりがちです。


たとえば、服を着て、「似合う?」と言われたときに、「うーん、似合わないよ」と言ったとします。ごく普通の会話ですが、詳しく考えると、「僕は似合わないと感じる」なのか、「一般的に見て、似合わないように感じる」のか、分かりません―――これくらいの違いはどうと言う事もないだろ、という人は、モロに日本人的な思考パターンに染まりきっているということでしょう。


こうした面で見ていくと、日本語的な特性って何だろうか英語と比較して、適当に分析してみると


1.言葉(主語、目的語など)を省略して、あいまいにする。

2.言いたいこと(述語)を最後にいう。

3.文章が、階層的ではない。


1,3は、文章のロジカルさを削ぎます。言語による思考も、どうしても、あいまいなものになりがちです。けっこう意識しないと、自他の境界線があいまいになりがちかもしれません。


逆に言うと、ロジカルさが削がれることで、文章にやわらかさが出てきます。省略表現は、相手と共有しているものが多いからこそ、成立すると考えられます。何故か、省略表現を使うほうが、相手と共有しているものが多いと感じられ、結果的に、その相手との親和性が高くなる、気がします。さらに逆を言えば、「共有できるはずのものを共有できない人」は、排除される恐れがあります。


2では、思考がくどくなりがちな傾向をつくっているかもしれません。


上記をまとめて言うと、(英語と比較すれば)語りがくどくなりがちで、あまりロジカルではないが、うまく使えば、相手との距離を詰めやすい言葉、ということになりそうです(逆に排他的になりやすいところも)。


とはいえ、これは言語の特性を(直感的に)分析しただけなので、これと一部の実態がずれていることが十分あります。


ここから、思考→文明・文化の話。


最近、「耳で考える」という本を読んだのですが、その中では、日本人が「構築」が苦手な理由は、日本語の成り立ちや使い方のせいではないか、というようなことが書いてありました。


日本では、職人芸として優れたものをつくるが、宇宙工学のようなロケットをつくるような分野では、車よりも何桁も多い部品を作った上で、組み上げから手順から、すべて考えなくてはならない。そういったところが弱いと。


そうした「構築」が弱いのは、日本語というものが、論理的に構築するタイプの言語ではないせいで、歴史的に「構築」するという慣習がないせいではないかと。伝統的には、「習うより、慣れろ」の職人芸的な伝達の仕方が主流のようですから。


英語であれば、アルファベットを組み合わせて、単語を構築していくものですし、英語の用法自体が、かなり論理性をもつものです。日本語の使用方法に論理性がない、というのは、主語や目的語を端折ることが多いなど、上記の意味においてです。


つまり、日本語的な思考形式が、もともと「構築的」ではないせいで、そうした技術の伝達方法も、「構築的」にはならない(秘儀伝授的な伝達の仕方になる)。


いまや、ずいぶん西洋的なシステムが輸入されているので、社会全体としては、かなり構築的でシステマティックになってきていますが、思考やコミュニケーションの面で、「構築」する伝統があまりないので、文化などにもそれが反映されている面はあるのではないか、という気はします。


たとえば、日本の思想史においては、「構築する」という伝統がなく、西欧からの思想をつまみ食い的に受容していっている、という指摘があります。


他にもあるかもしれませんが、今はとりあえず、おいておきます。


「言語は文化だ」といわれますが、それは文化が言語を内含している、という意味です。しかし、今回の文章では、「言語は、(思考形式を通じて)文化を形作る」という文章になっています。


粗雑な論理だったかもしれませんが、とりあえず今日はここまでにします。


ついでに


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa600720.html

(日本語と英語の論理展開の差異の原因を尋ねているだけなのに、優劣の差とか、有用か不要かという図式を持ち込んで議論している人がいるのが、なんとも。「誰もそんな話してねーよ」と突っ込まないのが、日本人の和の心なのですね笑。西欧的な二項対立的思考も、情緒的な日本人にかかれば、無意味なところで導入してしまうようです)


☆まとめ


日本語の特性に影響を受けた思考形式は、ロジカル・構築的ではない(とはいえ、日本語だけとは言わないが)。

議論などより、どちらかというと、柔軟なおしゃべり向きの言語という気がする。

ちょっとしたマンガ分析

【生活世界11】


最近、オタク系の人とスカイプで話していた。思うよりも、サブカル系の話題を好む人がネット上にはいるようだ。


自分もさほど興味は湧かないけれど、あえてそうしたものに触れることで、自分の世界(自分の好きなもの)が拡がるだろうか、ということで、漫画を数冊買った。


そこで、ちょっと共通性のある漫画があったので、それを分析してみたい。


ヘタリア」と「聖☆おにいさん」の二冊だ。どっちも、ゆるいコメディ漫画。前者は、国の擬人化マンガ、後者は、イエス=キリストとブッダが、ギャグをたれながしながら、バカンスを下界ですごすという内容だ。いわば、「聖人のキャラ化」だ。


サブカル批評の文脈では、「物語消費からデータベース消費」(東浩紀)などといわれてますが、「日本の難点」という本の中では、「関係性の履歴からシーン(事件)の羅列」という事態のブランチに過ぎない、と指摘されています。


この指摘は、どういう意味をもつのかというと、要するに、若者のコミュニケーションのフラット化という背景が読み取れる、ということです。


人間の流動性が高まったせいで、特定の人にコミットせずに、人間関係上のリスクを分散させるため、ケータイなどで「タコ足化」をするので、それだけ人と深く関わらなくなった。


だからこそ、「関係性の履歴」は否定され、情動を安易にゆさぶる「シーン=事件」の羅列に心が向かう、ということです。


それに通底するのが、「キャラを消費する」ということ。関係性の積み重ねの描写を評価するのではなくて、いかにキャラが立っている(目立っている)か?で判断する。


「キャラ」を持つことが、自己防衛になっている現状では、すんなり受け入れやすいのだろう。「友だち地獄」という本では、思想(のような共通前提を与えてくれるもの)が消失したせいで、アイデンティティが拡散し、むきだしの身体性が残った。それに従うしかない不安定な(=アトム化した)個人は、ひたすら「優しい関係」に頼り、空気を読んでいくことで、お互いを傷つけないようにしている、という。


アイデンティティ(個人を形作る好きなもの)が共有化できず、表層的なキャラ・コミュニケーションを繰り返してばかりいると、逆にストレスがたまってしまう、というわけだ。


そういう意味で、「ヘタリア」も「聖☆おにいさん」も、そうした事情を背景にもった漫画の一部ということになるのでしょう。まあ、どっちも笑えるけれどね。あくまで、上記は、漫画の属性の話。


「キャラ化するニッポン」という本では、さまざまなところで起こっている「キャラ消費」の背景を日本人のキャラクターを愛好する国民性が原因だとしている。


まあ、どちらかというと、関係性の履歴の否定の話のほうが、自分にとっては、リアリティがあるけれど。しかし、日本人のキャラ好きが、そういう側面を促進している面は否定できない。


そもそも、なんで、日本人は「キャラ」が好きなのか?そこらへんは、養老孟司氏が、日本語とマンガの関係性について、論じていた部分にヒントがありそうだ。まあ、そこらへんは、のちのち考えてみたい。

『素晴らしい世界 1』

【生活世界10】


たまには、ゆるい内容でも。論理的にもつながりがゆるい文章が続きます。


昨日は、新潟市へ出向いていた。ちょうど4連休もあり、予定も無くて、刺激がほしかったからだ。ネットで知り合った人が、秋田市から試験を受けに来ていたので、その人と同行した。


とはいえ、新潟市には、巡って楽しいところは、あんまりない。今は、新潟国体とかで多少は湧いているのかもしれないが、基本的にレジャー的なものはない。買い物施設に、飲み食い施設ならあるが。


ルート:マクドナルド(自分だけ食べる)→途中の道(なんかバンド演奏やってた。ノリノリのおっさんやおばさんが踊っていた。チェッカーズのカバーバンド対決っぽい)→ラブラ万代ビルボードプレイス(ヴィレッジバンガード)→高速バス乗り場近くのベンチで、しゃべる(この時点で、相手の本名がようやく分かった)→適当にうろうろ→新潟駅→解散。


マックに行くと、たいていフィレオフィッシュにコーラのSですが、おいしいです。


ちなみにフィレオフィッシュに使用されている深海魚 ホキ(hoki)はただいま減少中のようです。


ラブラ万代で、ぶらぶらとメガネ店を覗いたり、雑貨店の商品に触れたりする。その後、椅子に座って、今後どこに行くか協議した。というか、行くところのなさ加減にふたりで笑うしかなかった。


というわけで、ビルボのヴィレバンに行ってみた。ドンキより、自分は好きだ。いろいろ物色する。漫画コーナーに、自分がちょっと好きそうなものが置いてあったので、買ってみた。


「素晴らしい世界」浅野いにお 


アマゾンで、見たことあるけど、まったくどんな漫画か分からずなので、買ってみた。あとで、レビューしてみよう。


なんか癒し系インテリアがあった。40センチくらいの高さの水槽様の商品で、中には水が詰まっており、スライム状のふやふやした白い物体が、形を変えて、上下に浮遊している。連れが「こんなのあったら、一日中、眺めていたい」と言っていた。


クラゲ好きな自分にも分かる気がするけど、さすがに一日中は、時間がもったいないと思う。時間観の違いか。資本主義社会の効率主義が、自分の骨の髄まで染み付いているのかもしれない。


あんがい、こういうすれ違いって見逃しがちだけれど、なんか根本的に違う感性を持っているんだなあって気がしてくる。「せっかち」だといわれたし。


その後、一旦出てから、どっかのベンチにすわり、いろいろな話題をグダグダ話す。その後、無駄に歩き回り、駅に向かう。


で、いろいろと話して、解散、と。


―――――――――――――――――――――――――――――

で、「素晴らしい世界」という漫画について。


少年漫画系を読むことが多いせいか、話がどこに転がっていくか分からない浮遊感のある青年漫画は、新鮮味がある。


☆全体的な感想


若さ特有の、斜に構えた雰囲気、感情の発露、諦念、自意識の葛藤。


素朴なタッチの絵も、通奏低音のように流れるアンニュイさとマッチしている(気がする)。


設定もありそうだけれど、部分部分で過激だったりして、面白い。


一つひとつは話として独立はしているが、世界は地続きでつながっているというオムニバス形式になっている。


こういうざっくりしたことを書いても、ひとつも話の内容が分からないはずだけれど、ごく日常的な人間(男女)関係を描いていたりするので、言及しにくい。


主に描かれているのは、人間関係なので、半分そういうものから降りている自分にとっては、なんだかまぶしかったりする。でも、これからもっと人間関係が広がれば、よりしみじみと感じるのかもしれない。


ともあれ、昨日は帰ってきてから、精神不安定だったので、この作品がやたらと心にしみたので、何が面白いのか、書き出してみた。


こういう日常の延長線上にある作品とか読むと、その世界観と自分の日常を接続したくなる。つまり、その世界の人間であるかのように振舞う、ということ。


そうなったら、自分どんなキャラなのかな。たぶん、漫画として成立しないと思う。まず、コミュニケーションの取りかたが平板(あいづち→ボケる・つっこむ)で、それ以外の話し方を知らないので、表面的な話しかできない脇役としてしか存在し得ない気がする。たぶん、バラエティ番組ばっかり見ているせいだろう。


深い話にならない。というか、それが怖いのかもしれないけど。


もう少し、何かを語れる中身のある人間だと勝手に思い込んでいたのだろうか。とはいえ、すべてのものは何かの組み合わせで、言語だってそうなんだから、何を言葉で語っても、自らのオリジナリティは剥奪されるわけで、他人は「へ〜」と中身のないあいづちを打つだけだ。ちっとも楽しくない。


もうそろそろ認識のステップを移動させないといけないのかもしれないな。


つまり、瞬間性、一回性の体験を多く持つ、ということ。まあ、すべての経験はそうなのだけれど、強い情動をともなう一回性の体験。


そんな文脈で、自分は今、写真集に惹かれているのかもしれない。風景のフォトグラフ。瞬間を切り取った写真。


でも、写真は生き生きしているけれど、結局、標本のように、死んでいるものなのだ。しかも、写真集は、資本に支えられている点で、もはや純粋な自然ではない。


やはり、体験か。以前、パンピーの生き方としてまとめた偶有性の出来事に飛び込む勇気をもって、実際に飛び込んで、経験を積んで、生きる、というもの。


初期仏教の立場からすれば、なんでもかんでもトライする態度はばかげているのかもしれないけれど、若いときには馬鹿なことをやってから、落ち着いてもいいとは思う。


ここまで書いてみて、


対人関係は適度にこなしながら、実はほとんど心を開かず、自分の殻のなかで、諦念と願望のはざまで揺れる、重たい自意識を抱えた、弱い実存の姿が、イメージされてきた。


結局、このブログは、その形のない自意識や関心を体系的な形にするためのツールに過ぎないのだ、と思う。整理しても、袋小路の苦しみがあるだけであることが、分かったけれど。


今はなんだか、今まで閉ざしてきた心の扉を無理やり開けようとしている時なのかもしれない。自分にとっての世界観が、揺らいでいる。

HIVのワクチン

【生活世界―システム4】


学校のクラスメートが、「すげーよなあ」とか言ってたニュースがあるので、今日はそれを掘り下げてみる。


エイズ感染リスク3割減少=2種類混合の新ワクチン−タイ
9月24日20時52分配信 時事通信

 
バンコク時事】タイ保健省は24日、2種類を混合したワクチンにより、エイズウイルス(HIV)の感染リスクが約3割減少したとする臨床試験結果を発表した。同省は「HIVワクチンの予防効果が立証された初めての例であり、大きな躍進だ」としている。
 AFP通信などによると、タイと米国の研究者が協力。仏企業製のカナリア痘ワクチンと米国の製薬会社が開発したHIVワクチンを組み合わせて使用した。
 試験は2003年、タイ中部チョンブリ、ラヨン両県で実施。HIVに感染していない18〜30歳のボランティア男女約1万6000人の半数にワクチンを投与した。 


2種混合ワクチンにて、 HIV感染リスクを約3割減少させられたとのニュースです。まあ、確かに研究が進んだこと自体は、研究者たちにとってはいいのでしょうけれど。


現在のところ、予防ワクチンというものの意義は、どれくらいあるのかな〜と疑問です。罹患患者の3分の2は、貧乏なサハラ以南(南アフリカ)に居住しており、いくら予防ワクチンがあっても、購入できないというのが現状でしょう。その原因については、多少後述します。


今日は、HIV問題について、自分なりにまとめたいと思います。


HIV問題とは?


国連合同エイズ計画が、2008年に発表した統計では、全世界のHIV感染者は、約3300万人です。罹患し、発病をしたら、日和見感染症などによって、死に至ります。


対処法としては、2つあります。


1つは、HIV感染を防ぐこと。コンドームなどの避妊具の使用によるセイファーセックスなどが、代表例です。


2つ目は、感染後、抗HIV薬を使用する方法です。多剤併用方法(HAART療法)により、血中のウイルスを測定感度以下にまで、抑えることができるようになったようです。代表的な薬は、AZT、ddI。


ワクチンの開発改良によって、一日1回〜2回の服用で、発病を遅らせることができるとのこと。人によっては、糖尿病のような慢性疾患として捉えられる―――強力な薬のために、長期投与で、肝疾患に陥る場合があるようです。


では、具体的に何が問題なのか?


1.死に至ること 2.差別されること 3.薬が手に入らないこと


1については、そのままの意味です。周知の通り、HIVウイルスは、免疫細胞(CD4陽性T細胞)を破壊し、日和見感染症に罹患させ、死に至らしめます。


ニューモシスチス肺炎、カポジ肉腫、悪性リンパ腫、皮膚ガンなどの悪性腫瘍、サイトメガロウイルスによる身体の異常など、様々な疾患にかかってしまいます。


2について。HIV感染経路に関わる問題です。HIVの感染力は、きわめて低く、滅多には感染しないようです。


a.血液感染 


HIV感染した血液が、傷口に触れたり、麻薬の注射針の使いまわしによって、感染するパターン。日本の医療現場では、88年には、注射針の使いまわしは徹底的に禁止されたので、今ではありえないでしょうけど。肝炎の罹患にも関わってくる話です。汚染輸血では、95%の確率で感染します。


b.性行為感染


性分泌物(精液、膣分泌液)が、身体の粘膜に直接触れ、そのまま血液に感染するパターン。男性同性愛者にとりわけ多い。性器の潰瘍があると、2〜4倍感染率は高くなります。


とはいえ、男性同士では、一回の性交につき、0.1〜3.0%の確率、異性同士の一回の性交では、0.1〜0.2%の確率で感染です。けっして確率は高くはありません。だからこそ、偏見につながりやすいともいえますが、後述します。


c.母子感染


産道通過と母乳が主な感染源となります。帝王切開や粉ミルクである程度防ぐことができるとのこと。母親に、抗HIV薬を投与することで、感染を防げる場合があるようです。


2について。


http://www.cnn.co.jp/world/CNN200908250029.html


上記の記事に見られるような偏見があります。偏見を分類します。


d.何かの拍子で、簡単に感染してしまうのではないか?


上記したように、日常生活において、簡単に感染することはない。しかし、知識は知っていても、それが信用できず、過剰に神経質になる人もいるようです。


http://www.mudaijp.com/wp/5753.html


上記のURLは、2ちゃんねるのまとめですが、拒否反応を起こしている人が少なからずいます(途中で、HIVによる日和見感染者の画像がありますので、注意。カポジ肉腫かもしれません。ともあれ、HIVの怖さを視覚的に実感することができます)


内閣府エイズに関する世論調査(2000年)では、45パーセントの人が、「HIV患者と同じ職場で働きたくない」と回答しています。


e.性的タブーを破っている?


不特定多数と多くの性的関係を結んだからではないか?男性の場合、同性愛者なのではないか?宗教上の戒律を破っているのではないか?


関連URL↓

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20050519sw91.htm

http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2622831/4380874

確かにその可能性はありますが、前者2つについては、客観的には、ライフスタイルの自由の問題であり、とやかくはいえないはずですが、やはりそこには、「自業自得だ」という偏見の目が入ることが多いでしょう。


3について。現実的に、薬があるにも関わらず、種々の要因から、それを手に入れることができないという問題。


f.経済的問題


薬が高価で手に入らない。薬剤の開発、使用に対する使用料の問題もあります。


この問題の対処として、関連するページを貼っておきます。


http://www.toppan.co.jp/news/newsrelease923.html

 
つまり、オーダーメイド医療によって、医療を抑制するということです。


g.政治的・宗教的問題


国民主権でない場合。イスラム圏など、性がタブーになっている場合。


3のポイントは、薬があるにも関わらず、その障壁があるせいで、不自由を感じてしまう、という点です。


というわけで、多層的なHIV問題を切り分けてみました。


ともあれ、対処法は、レベルを分けて、ひとつひとつ地道にやっていくほかないのでしょう。


最後に、日本エイズ学会のHPを貼っておきます。


http://jaids.umin.ac.jp/journal/journal_vol09_no03_j.html

民主党の報道規制問題

【システム6】


最近、ネットで見たニュースのなかで、やや注目しているのが、民主党報道規制問題。

 
以下、その問題の背景をごく簡単に書くと。


元々、野党時代の民主党は、岡田克也幹事長時代から、記者会見を記者クラブ加盟社以外にも、開放していた。


仮に、政権をとったら、記者会見をオープンなままなのか?との質問について、「開放しておく」という答えが、党首(小沢氏、鳩山氏)から返ってきていた。マニフェストに組み込むまでもなく、実行することである、と。


が、政権をとった初日から、報道は規制された。基本的には、記者クラブが独占した。その他としては、雑誌記者や外国特派員が限定的に認められたが、記者クラブのメディアは、これを「記者クラブからの開放の一歩」であるかのように報じた。ネットメディアは、「セキュリティの問題」だったり、「スペースの問題」などで、締め出された。


☆何が問題なのか?


まず、公約違反である、ということに加えて、国民の知る権利の阻害。


なぜ、知る権利が阻害されるのかというと、政治権力とメディアが癒着するから。


ビデオジャーナリストの神保哲生氏のブログによれば、


記者クラブには、preferred access(優先的アクセス)や、privileged access(特権的アクセス)という特権的地位があるようです。


記者会見で、大臣や政府高官が嫌がる質問や他のメディアが嫌がる質問をすると、その記者・記者の属する報道機関が、その特権性を失うかもしれないリスクがある。



ところが、記者会見をオープンにすると、嫌な質問をしても、会見に出る資格を剥奪されるという心配がなくなるので、なんでも聞ける、という強みがでてくる。


そのオープン性がなくなると、記者会見は、ただの儀式に成り下がってしまう、と。


記者クラブのやっていること・やるべきこと


そもそも記者クラブとは、1890年に帝国議会の取材を求める記者たちが「議会出入り記者団」を結成したのが、はじまりのようです。


現在、記者クラブに近い制度があるのは、日本とアフリカのガボンくらいだと。


そんな世界的にはほとんどない制度なわけですが、海外と比較すると、かなりその仕事の質が、真逆であることが窺えます。


海外では、発生したことをストレートに発表するのは、APやロイターなどの通信社の仕事で、新聞社は、ジャーナリズムに力を注ぐ。


ところが、日本の新聞社は、通信社がやるワイヤーサービスと、新聞社がやる評論・分析・調査報道の結果を分けずにやっている。


記者クラブの間では、横並びの記事が並び、それに対して、安心する、という構図があるようです。政治家が何を話したか、メモ合わせをするなどの話があります―――海外メディアでそれをやったら、即クビになるようですが。


政治記者は、権力の監視をすべき仕事ですが、ただの儀式に成り下がった記者会見では、いかに他社と同じ記事が書けるのか、というかなり日本的なピア・プレッシャーがかかるのみです。


なんでも自民党に反対してきた民主党ですが、メディアの癌化現象は、しっかり受け継いでしまったようです。


情報受信者である国民が、さまざまなパースペクティブを獲得し、世論が多層化する必要性があると思いますが、そのためには、やはり記者会見のオープン性を維持して、さまざまな種類のニュースが閲覧できる、という状態をつくりだす必要があると思います。


主催の問題・スペースの問題・セキュリティの問題があるといわれますが、それをどう解消していくのか?


あるいは、ネットでさんざん言われても、何事も無いかのように、記者会見は、制限されたままでいくのか?


今回の記者会見制限の背景にいた人々が確定されれば、総選挙で当選がどうなるのかな〜と思います。

全身性エリテマトーデスについて

最近は、ブログネタとしてストックしている内容が、射程が広いせいで、カンタンに書けない。


法律の根源とか、後期近代の特徴とは?とか・・・ネットで探すとけっこうまとまった資料が出てきていて、面白い。大学とかで考えるテーマなんだろうなー。


もう、そういう枠組みを整理するのは、個人的なノートにしておいて、ネットから記事を探してきては、それを分析するというスタイルにしようか、と考案中。


とはいえ、同時に学校の勉強もしなくてはいけないという状態なので、とりまこっち先にやります。



【臨床検査2】


全身性エリテマトーデスについて。


自己免疫疾患。本来、病原体に向かって働くはずの免疫系が、自己の正常の組織・細胞に攻撃を仕掛けることによって起こる病気の総称。全身性と臓器特異性がある。特定疾患に指定されていることが多く、女性が罹患しやすい。


膠原病(=全身性自己免疫疾患)である。「結合組織病」というほうが、正確。典型的主症状には、発熱・倦怠感・関節痛・レイノー現象がある。


代表的な症状は、

蝶形紅斑、光線過敏症、口腔内潰瘍、非びらん関節炎、漿膜炎(胸膜炎、心膜炎)、腎障害(ループス腎炎:蛋白尿、細胞性円柱)、神経障害(痙攣、精神症状)、血液学的異常(汎血球減少→凝固能:抗リン脂質抗体などが原因、貧血:自己免疫溶血性貧血)など。


全身的な症状なので、ひとつひとつ覚えるのは大変だ。イメージの連鎖で記憶するのがセオリーなのだけど、うまく作れそうにない・・。


『「光」を発する「蝶」が、「口」の中に入って、「人心」(腎・神経)に「干渉」(関節炎・漿膜炎)し、「血」が湧く』


まあ、こんなところで。


☆どのような抗体が原因か?


抗核抗体・抗ds-DNA抗体・抗Sm抗体・抗リン脂質抗体(ループスアンチコアグラント)など。


復習:抗核抗体について


FANA染色パターン


・peripheral型(辺縁型)―抗DNA抗体


抗DNA抗体は、二つに分けられる。 


抗ds-DNA抗体(二本鎖DNAと反応)と抗ss-DNA抗体(一本鎖DNAと反応)に分けられる。前者は、特にSLE(全身性エリテマトーデス)に出現する代表的自己抗体。


・homogeneous型(均質型)―抗ヒストン抗体 
             ―抗DNP抗体

どちらもSLEと関連アリ。前者については、薬剤誘発性ループス、後者については、関節リウマチ、全身硬化症とも関係アリ。


・specked型(斑紋型)―抗ENA抗体 


ENAは、細胞核からリン酸緩衝生理食塩水(PBS)で抽出できる可溶性核抗原。酸性核抗原蛋白、非ヒストン核蛋白抗原とも呼ばれる。specked型の対応抗原である。


膠原病などに高率に検出され、疾患特異性が多いので、自己免疫疾患の診断や治療方針の決定に重要。


4つほど種類があるが、ここでは、抗Sm抗体と抗U1-RNP抗体が、SLEと関連していることだけ押さえておきたい。


・nucleolar型(核小体型)―抗核小体抗体 


これは、全身性硬化症(全身性強皮症)のみと関係あります。


・centromere型(セントロメア型)―抗セントロメア抗体


これは、CREST症候群と関係あります。


☆アレルギー分類では?


Ⅰ〜Ⅴ型まで存在するが、SLE(のループス腎炎)は、Ⅲ型に分類される。


Ⅲ型の特徴:抗原+抗体(IgG,IgM)の免疫複合体が、組織に沈着。これを認識した好中球や補体系が組織を障害する。


急性期には、血清中の補体価(C3、C4、CH50)は低値を示す。


自分は、このSLEの問題が出たときに、アレルギーの分類で、Ⅲ型だと気づいていれば、補体価が下がる、とすぐ分かったはずだが、アレルギーと結び付けて考えなかった。何か情報を得たときに、なんらかの知識体系を連想しないと、その情報をどうジャッジしていいのか分からなくなる、ということの典型的例ですかそうですか。


とりあえず、ここでSLEのまとめは終了。けっこう時間がかかってしまった。

空気を読む?

【生活世界9】

☆会話のコーディネート力


自分は、人とそれほどベタベタしないわりには、「コミュニケーション能力」というものについて、こだわって考えているほうだと思う。こだわるようになったきっかけは、自分が思想・哲学という分野に関心をもつ契機になったとある一冊のエッセイが原因だけれど、それはまた別の話。


ささいなことだけれど、昨日クラスメートとしゃべっていて、気づいたことがあったので、再考する意味もかねて書き出したい。「空気を読むことについて」という、ちょっと前に流行った話題だ。


『「空気」と「世間」』(鴻上尚史著)という本がある。その本をたまたま書店で発見したとき、ちょうどmixiのコミュ二ティで、「世間とは何か?」というトピックを自分が立てていて、それを考える上で、トピと同名の『「世間」とは何か?』(阿部謹也著)という本を参照しようとしていた。


『「空気」と「世間」』を手にとって読んでみたら、阿部氏の議論を援用しながら、日本的な「世間」が壊れたものが、「空気」となっているのだ、という主張をしている。パラパラと読むうちに、とても感動して、買うことにした。


マズローの5段階欲求説に従って言えば、「愛と所属の欲求」をいかに満たすのか?という問題意識ですが、それに基づいて、鴻上氏は、いくつか選択肢を提示している。


1.「世間原理主義者」になる

2.「共同体の匂い」に支えられる

3.「家族」に支えを求める

4.ほんの少し「強い」個人になる


ひとつひとつ詳述はしないけれど、簡単に書く。

1について。過激な右寄りの人々で、それに反するようなものをつぶす人々。代表的なのは、キリスト教福音派や、ネット右翼など。「(共同体の)原理や同一性の強制」を求める


たとえば、福音派であれば、たとえレイプされて妊娠したとしても、子供は中絶すべきではない、という考え方になります。それが聖書の言葉(=原理)だからです。短所は、延々と攻撃対象を見つけなくてはいけないこと。


2について。壊れかけた「世間」にすがりつく、という手段。自分は以前、これを「友達ごっこ」と表現していたけれど、今でもその感覚は変わらない。つまり、「空気」を読んで、その場に適応し、包摂されている、という感覚を得る目的があります。


しかし、「多数派はだれか?」「多数派の判断は何か?」というふたつについて、常に意識しなくてはいけないことです。多くの日本人に当てはまるのではないでしょうか。D‐リースマンという社会学者の言葉を借りれば、「他者指向型」です。


3について。家族は、最小の共同体の単位だとか言われますが、そこに安全基地(=安心と信頼の場)を求めるあり方。しかし、密な関係性ゆえに、抑圧と否定の場にもなりえる、ということです。


ちなみに、個人的な考えを書くと、もし家族間で、否定的な関係性が長いこと続いていたら、もういったん「家族」というものに対する過剰な期待や願望を一度捨て去ってしまうことです。潜在意識に「ああしてほしいこうしてほしい」と書き込まれているから、いちいち不満になるわけなので。


自分はその方法をしたら、逆に安穏な関係性になりました。「家族なんだから、ここまでしてくれて当たり前」という思い込みをギリギリまで捨てる、ということです。


自分は、父親には「とりあえず金を稼いでもらえばいい」、母親には「とりあえず、料理などの家事をやってくれればいい」という具合に考えます―――そんなの当たり前だろ、という人はたぶん、“幸福な”家庭で育っているのでしょう。よかったですね。


4について。あえて、「空気」を過剰に意識することなく生活する、ということです。「裸の王様だ!」と叫ぶ子供のように。KYになっても気にしないという。しかし、自分を価値の源泉として生きる生き方はしんどいと思います。


ニーチェという哲学者は、キリスト教のような既存の奴隷道徳に従うのではなくて、自分自身が価値を創造するべきだ、というようなことを言っています。


字面だけ見れば、カッコいい生き方のようにも思われるけれど、結局、ニーチェ自身は、「人間をやめて、超人になるべき」というテーゼを、著書の中で、多くの人に読んでもらいたくて―――「奴隷道徳」に従って、書いています。


そして、神経症になるまで思い煩い、精神を病んでしまった。自分自身を価値の源泉とする生き方の不可能性に直面するほど、絶望的に苦しくなってしまう、ということなのでしょう。


そういえば、ネットでの知人で、「私は風俗嬢だけど、ニーチェの思想に心酔していて、快楽を与える性行為は、善行為だと思う」みたいなことを書き込んでいた人がいたけど、なんかそうでも思わないとやっていけないのかなあと思ったりする。


勝手に想像すると、何かが原因で、風俗嬢になったけれど、社会的にいい目で見られないと分かっているので、「私は風俗嬢の営業が善である、という価値を創造する」と思わなきゃいけない、ということ。まあ、他人の脳の中など、分かりっこないけれど。ちなみに自分に言わせれば、風俗みたいなのは、性犯罪を抑止するための必要悪だと思う程度で、善とまでは思えない。


だいたい、こんなまとめですが、鴻上氏は、ひとつ提案しています。それは、ひとつの「世間」に属するのではなく、複数の共同体にゆるやかに属することで、安心の場所を増やす、ということです。その上で、ネットの肯定的側面についても指摘しています。


まさに、自分の対人感性そのものなので、けっこう驚きました。ネットで気の合う人たちとやり取りをし、現実の「世間(=利害関係のある人間関係)」だけにこだわらない。逆にそれは、「若者のコミュニケーションのフラット化」として、マイナスに論じることもできるわけですが、そのことについても多少言及します。


ケータイなどのメディアが普及したおかげで、人間関係がカンタンに取り替え可能になってしまったという話ですが、それだと本当に安心できる安全基地がないので、心が不安定になりがちである、という問題があります。とはいえ、鴻上氏の議論と二項対立的に捉えるのは、ナンセンスです。入れ替え不可能な関係性を一握り持つことが出来れば、あとの大多数の関係性は、適当に「友達ごっこ」でやったらいい、ということです。


で、ようやく「空気を読む」という話になってきます。「社会」と接続する―――つまり、複数の共同体のなかでゆるやかな関係性を築くことで、安心を得るためには、そのための「適切な言葉遣い」と「会話力」が求められます。


「適切な言葉遣い」とは、「ですます調」です。これは、風通しのよい言葉遣いです。自分が言っているのではなくて、『「関係の空気」「場の空気」』(冷泉彰彦著)という本にそういう指摘があります。


「タメ口」は、「関係の平等性」を構築するものではなく、ホンネや、種々のこまやかな権力関係を持ち込むことにつながるので、逆にフラットな「ですます調」が「空気」を安定させる風通しがよい言葉遣いである、というのです―――ちなみに、自分は、このブログでは、あえてタメ口とですます調を混ぜて使っています。ある程度、読み手が引き込まれるような工夫です。


で、次に「会話力」。自分は3つにその要素を分けていますが、ここでは、その一要素である「コーディネート力」について、気づいたことと一緒にまとめます。


会話のコーディネート力↓

①配分力:自他の話す量を5:5にする


②空気を読む力:相手の気持ち・場の空気を察して、自分の反応を決めていく。


③文脈力:話題が何であるか、しっかり押さえている力


④ボディ・ランゲージ力:肯定的なボディ・ランゲージを使う・まねる。相手のボディ・ランゲージを読む(ミラーリング・ペーシング・リーディング)。


で、今日は、②について気づいたことを書く。


以前書いた「クローズ・トーク(一部にしか通じない会話)」「プライベート・トーク(私的な話)」という区分がありますが、これらの話には無理に関わらないようにする、ということです。


もちろん、じぶんがその輪の中に入っていればいいわけだけれど、入っていない場合は、いったん一息を入れて、耳を傾けるだけにしておく。「なんだか、会話を入らないと、自分だけ取り残されるんじゃないか?」と思って、気持ちだけ前のめりになることはない、ということ。


分からないのに、下手に会話に加わろうとすると、いちいち説明をしなくてはいけないので、それを繰り返していると、相手を疲れさせるから。一息いれて、会話の流れを押さえ(文脈力)、会話の隙間を見つけて、適当に会話に参加する程度が適当だと思った。


多くの「世間」は、「クローズ・トーク」や「プライベート・トーク」で、その親密さを形成させていきます。だから、その会話に加われない人は、「よそ者」です―――「世間」の特徴のひとつに「差別的で排他的」がある。壊れかけた「世間」―――つまり、「共同体の匂い」にすがって生きようとするならば、「空気を壊さない」ようにすることが大事かと。


とまあ、こんな感じで。以前書いたような「対人シーンでの感情労働」をこなすには、いろいろ気をつけるべき項目があると思います。気をつけなくても、「世間」の中なら、なんとかなるかもしれないけれど、「社会」―――多くの見知らぬ人も含めた人々とうまく接続していくためには、窮屈かもしれないけれど、ある程度のルールに従った振る舞いのほうが、かえって、「自由」だったりする、という結論。


まとめ

☆複数の共同体に属していたほうが、心理的ラク

☆無理に「クローズ・トーク」「プライベート・トーク」にはまらない。