ちょっとしたマンガ分析

【生活世界11】


最近、オタク系の人とスカイプで話していた。思うよりも、サブカル系の話題を好む人がネット上にはいるようだ。


自分もさほど興味は湧かないけれど、あえてそうしたものに触れることで、自分の世界(自分の好きなもの)が拡がるだろうか、ということで、漫画を数冊買った。


そこで、ちょっと共通性のある漫画があったので、それを分析してみたい。


ヘタリア」と「聖☆おにいさん」の二冊だ。どっちも、ゆるいコメディ漫画。前者は、国の擬人化マンガ、後者は、イエス=キリストとブッダが、ギャグをたれながしながら、バカンスを下界ですごすという内容だ。いわば、「聖人のキャラ化」だ。


サブカル批評の文脈では、「物語消費からデータベース消費」(東浩紀)などといわれてますが、「日本の難点」という本の中では、「関係性の履歴からシーン(事件)の羅列」という事態のブランチに過ぎない、と指摘されています。


この指摘は、どういう意味をもつのかというと、要するに、若者のコミュニケーションのフラット化という背景が読み取れる、ということです。


人間の流動性が高まったせいで、特定の人にコミットせずに、人間関係上のリスクを分散させるため、ケータイなどで「タコ足化」をするので、それだけ人と深く関わらなくなった。


だからこそ、「関係性の履歴」は否定され、情動を安易にゆさぶる「シーン=事件」の羅列に心が向かう、ということです。


それに通底するのが、「キャラを消費する」ということ。関係性の積み重ねの描写を評価するのではなくて、いかにキャラが立っている(目立っている)か?で判断する。


「キャラ」を持つことが、自己防衛になっている現状では、すんなり受け入れやすいのだろう。「友だち地獄」という本では、思想(のような共通前提を与えてくれるもの)が消失したせいで、アイデンティティが拡散し、むきだしの身体性が残った。それに従うしかない不安定な(=アトム化した)個人は、ひたすら「優しい関係」に頼り、空気を読んでいくことで、お互いを傷つけないようにしている、という。


アイデンティティ(個人を形作る好きなもの)が共有化できず、表層的なキャラ・コミュニケーションを繰り返してばかりいると、逆にストレスがたまってしまう、というわけだ。


そういう意味で、「ヘタリア」も「聖☆おにいさん」も、そうした事情を背景にもった漫画の一部ということになるのでしょう。まあ、どっちも笑えるけれどね。あくまで、上記は、漫画の属性の話。


「キャラ化するニッポン」という本では、さまざまなところで起こっている「キャラ消費」の背景を日本人のキャラクターを愛好する国民性が原因だとしている。


まあ、どちらかというと、関係性の履歴の否定の話のほうが、自分にとっては、リアリティがあるけれど。しかし、日本人のキャラ好きが、そういう側面を促進している面は否定できない。


そもそも、なんで、日本人は「キャラ」が好きなのか?そこらへんは、養老孟司氏が、日本語とマンガの関係性について、論じていた部分にヒントがありそうだ。まあ、そこらへんは、のちのち考えてみたい。