『素晴らしい世界 1』

【生活世界10】


たまには、ゆるい内容でも。論理的にもつながりがゆるい文章が続きます。


昨日は、新潟市へ出向いていた。ちょうど4連休もあり、予定も無くて、刺激がほしかったからだ。ネットで知り合った人が、秋田市から試験を受けに来ていたので、その人と同行した。


とはいえ、新潟市には、巡って楽しいところは、あんまりない。今は、新潟国体とかで多少は湧いているのかもしれないが、基本的にレジャー的なものはない。買い物施設に、飲み食い施設ならあるが。


ルート:マクドナルド(自分だけ食べる)→途中の道(なんかバンド演奏やってた。ノリノリのおっさんやおばさんが踊っていた。チェッカーズのカバーバンド対決っぽい)→ラブラ万代ビルボードプレイス(ヴィレッジバンガード)→高速バス乗り場近くのベンチで、しゃべる(この時点で、相手の本名がようやく分かった)→適当にうろうろ→新潟駅→解散。


マックに行くと、たいていフィレオフィッシュにコーラのSですが、おいしいです。


ちなみにフィレオフィッシュに使用されている深海魚 ホキ(hoki)はただいま減少中のようです。


ラブラ万代で、ぶらぶらとメガネ店を覗いたり、雑貨店の商品に触れたりする。その後、椅子に座って、今後どこに行くか協議した。というか、行くところのなさ加減にふたりで笑うしかなかった。


というわけで、ビルボのヴィレバンに行ってみた。ドンキより、自分は好きだ。いろいろ物色する。漫画コーナーに、自分がちょっと好きそうなものが置いてあったので、買ってみた。


「素晴らしい世界」浅野いにお 


アマゾンで、見たことあるけど、まったくどんな漫画か分からずなので、買ってみた。あとで、レビューしてみよう。


なんか癒し系インテリアがあった。40センチくらいの高さの水槽様の商品で、中には水が詰まっており、スライム状のふやふやした白い物体が、形を変えて、上下に浮遊している。連れが「こんなのあったら、一日中、眺めていたい」と言っていた。


クラゲ好きな自分にも分かる気がするけど、さすがに一日中は、時間がもったいないと思う。時間観の違いか。資本主義社会の効率主義が、自分の骨の髄まで染み付いているのかもしれない。


あんがい、こういうすれ違いって見逃しがちだけれど、なんか根本的に違う感性を持っているんだなあって気がしてくる。「せっかち」だといわれたし。


その後、一旦出てから、どっかのベンチにすわり、いろいろな話題をグダグダ話す。その後、無駄に歩き回り、駅に向かう。


で、いろいろと話して、解散、と。


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で、「素晴らしい世界」という漫画について。


少年漫画系を読むことが多いせいか、話がどこに転がっていくか分からない浮遊感のある青年漫画は、新鮮味がある。


☆全体的な感想


若さ特有の、斜に構えた雰囲気、感情の発露、諦念、自意識の葛藤。


素朴なタッチの絵も、通奏低音のように流れるアンニュイさとマッチしている(気がする)。


設定もありそうだけれど、部分部分で過激だったりして、面白い。


一つひとつは話として独立はしているが、世界は地続きでつながっているというオムニバス形式になっている。


こういうざっくりしたことを書いても、ひとつも話の内容が分からないはずだけれど、ごく日常的な人間(男女)関係を描いていたりするので、言及しにくい。


主に描かれているのは、人間関係なので、半分そういうものから降りている自分にとっては、なんだかまぶしかったりする。でも、これからもっと人間関係が広がれば、よりしみじみと感じるのかもしれない。


ともあれ、昨日は帰ってきてから、精神不安定だったので、この作品がやたらと心にしみたので、何が面白いのか、書き出してみた。


こういう日常の延長線上にある作品とか読むと、その世界観と自分の日常を接続したくなる。つまり、その世界の人間であるかのように振舞う、ということ。


そうなったら、自分どんなキャラなのかな。たぶん、漫画として成立しないと思う。まず、コミュニケーションの取りかたが平板(あいづち→ボケる・つっこむ)で、それ以外の話し方を知らないので、表面的な話しかできない脇役としてしか存在し得ない気がする。たぶん、バラエティ番組ばっかり見ているせいだろう。


深い話にならない。というか、それが怖いのかもしれないけど。


もう少し、何かを語れる中身のある人間だと勝手に思い込んでいたのだろうか。とはいえ、すべてのものは何かの組み合わせで、言語だってそうなんだから、何を言葉で語っても、自らのオリジナリティは剥奪されるわけで、他人は「へ〜」と中身のないあいづちを打つだけだ。ちっとも楽しくない。


もうそろそろ認識のステップを移動させないといけないのかもしれないな。


つまり、瞬間性、一回性の体験を多く持つ、ということ。まあ、すべての経験はそうなのだけれど、強い情動をともなう一回性の体験。


そんな文脈で、自分は今、写真集に惹かれているのかもしれない。風景のフォトグラフ。瞬間を切り取った写真。


でも、写真は生き生きしているけれど、結局、標本のように、死んでいるものなのだ。しかも、写真集は、資本に支えられている点で、もはや純粋な自然ではない。


やはり、体験か。以前、パンピーの生き方としてまとめた偶有性の出来事に飛び込む勇気をもって、実際に飛び込んで、経験を積んで、生きる、というもの。


初期仏教の立場からすれば、なんでもかんでもトライする態度はばかげているのかもしれないけれど、若いときには馬鹿なことをやってから、落ち着いてもいいとは思う。


ここまで書いてみて、


対人関係は適度にこなしながら、実はほとんど心を開かず、自分の殻のなかで、諦念と願望のはざまで揺れる、重たい自意識を抱えた、弱い実存の姿が、イメージされてきた。


結局、このブログは、その形のない自意識や関心を体系的な形にするためのツールに過ぎないのだ、と思う。整理しても、袋小路の苦しみがあるだけであることが、分かったけれど。


今はなんだか、今まで閉ざしてきた心の扉を無理やり開けようとしている時なのかもしれない。自分にとっての世界観が、揺らいでいる。