言語と思考と文明・文化

【システム7】

最近は、かなり寒くなってきました。手足が冷えます。でも、頭は関係なく働くわけで、働く頭で、ちょっと大きなことを考えてみます。


☆言語→思考→文明


はじめに断っておくと、特に英語圏のあり方を持ち上げる目的の文章ではありません。


人間の思考能力というものは、大きくその言語の特性に規定される、という考え方があります。


ドイツで、「教養」という概念を首唱したヘルダーや、フンボルトという人は、思考と言語が不可分の関係にあると主張したようです。


たとえば、英語圏のコミュニケーションはロジカルで、日本のコミュニケーションは、情緒的になりやすい、というイメージがあります。


喋るときには、微妙に思考します。人によって、全部考えてから喋る人もいれば、考えながら同時に喋る人もいるでしょうけれど。


その際には、上記の考え方に従えば、言語的特性の影響を受けていることになります。たとえば、英語という言語は、複文構造になっています。つまり、いくつも主語や述語がでてきても、結局、ひとつの文章にすることができます。その文章は、階層的です。


そこがロジカルになれるところと思います。逆に日本語では、主語や目的語を必要に応じて、省くことが多いです。かなりファジーな言い方になりがちです。


たとえば、服を着て、「似合う?」と言われたときに、「うーん、似合わないよ」と言ったとします。ごく普通の会話ですが、詳しく考えると、「僕は似合わないと感じる」なのか、「一般的に見て、似合わないように感じる」のか、分かりません―――これくらいの違いはどうと言う事もないだろ、という人は、モロに日本人的な思考パターンに染まりきっているということでしょう。


こうした面で見ていくと、日本語的な特性って何だろうか英語と比較して、適当に分析してみると


1.言葉(主語、目的語など)を省略して、あいまいにする。

2.言いたいこと(述語)を最後にいう。

3.文章が、階層的ではない。


1,3は、文章のロジカルさを削ぎます。言語による思考も、どうしても、あいまいなものになりがちです。けっこう意識しないと、自他の境界線があいまいになりがちかもしれません。


逆に言うと、ロジカルさが削がれることで、文章にやわらかさが出てきます。省略表現は、相手と共有しているものが多いからこそ、成立すると考えられます。何故か、省略表現を使うほうが、相手と共有しているものが多いと感じられ、結果的に、その相手との親和性が高くなる、気がします。さらに逆を言えば、「共有できるはずのものを共有できない人」は、排除される恐れがあります。


2では、思考がくどくなりがちな傾向をつくっているかもしれません。


上記をまとめて言うと、(英語と比較すれば)語りがくどくなりがちで、あまりロジカルではないが、うまく使えば、相手との距離を詰めやすい言葉、ということになりそうです(逆に排他的になりやすいところも)。


とはいえ、これは言語の特性を(直感的に)分析しただけなので、これと一部の実態がずれていることが十分あります。


ここから、思考→文明・文化の話。


最近、「耳で考える」という本を読んだのですが、その中では、日本人が「構築」が苦手な理由は、日本語の成り立ちや使い方のせいではないか、というようなことが書いてありました。


日本では、職人芸として優れたものをつくるが、宇宙工学のようなロケットをつくるような分野では、車よりも何桁も多い部品を作った上で、組み上げから手順から、すべて考えなくてはならない。そういったところが弱いと。


そうした「構築」が弱いのは、日本語というものが、論理的に構築するタイプの言語ではないせいで、歴史的に「構築」するという慣習がないせいではないかと。伝統的には、「習うより、慣れろ」の職人芸的な伝達の仕方が主流のようですから。


英語であれば、アルファベットを組み合わせて、単語を構築していくものですし、英語の用法自体が、かなり論理性をもつものです。日本語の使用方法に論理性がない、というのは、主語や目的語を端折ることが多いなど、上記の意味においてです。


つまり、日本語的な思考形式が、もともと「構築的」ではないせいで、そうした技術の伝達方法も、「構築的」にはならない(秘儀伝授的な伝達の仕方になる)。


いまや、ずいぶん西洋的なシステムが輸入されているので、社会全体としては、かなり構築的でシステマティックになってきていますが、思考やコミュニケーションの面で、「構築」する伝統があまりないので、文化などにもそれが反映されている面はあるのではないか、という気はします。


たとえば、日本の思想史においては、「構築する」という伝統がなく、西欧からの思想をつまみ食い的に受容していっている、という指摘があります。


他にもあるかもしれませんが、今はとりあえず、おいておきます。


「言語は文化だ」といわれますが、それは文化が言語を内含している、という意味です。しかし、今回の文章では、「言語は、(思考形式を通じて)文化を形作る」という文章になっています。


粗雑な論理だったかもしれませんが、とりあえず今日はここまでにします。


ついでに


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa600720.html

(日本語と英語の論理展開の差異の原因を尋ねているだけなのに、優劣の差とか、有用か不要かという図式を持ち込んで議論している人がいるのが、なんとも。「誰もそんな話してねーよ」と突っ込まないのが、日本人の和の心なのですね笑。西欧的な二項対立的思考も、情緒的な日本人にかかれば、無意味なところで導入してしまうようです)


☆まとめ


日本語の特性に影響を受けた思考形式は、ロジカル・構築的ではない(とはいえ、日本語だけとは言わないが)。

議論などより、どちらかというと、柔軟なおしゃべり向きの言語という気がする。