デジタル思考

【生活世界12】


「自分のことを知ることは、大事だ」というテーゼがある。


何故大事なのか簡単に書けば、「自己形成の土壌」をつくるためと言ったところか。


1.自分が、何を許せて(看過できて)、何を許せないのか知るため(対象は、人間の言動、システム)

2.自分が望むものを知らせるため(アイデンティティを提示する)


1も2も、その境界線は、恣意的であいまいだ。何をどこまで許せるか、許せないか。何が好きで、何がどうでもよくて、何が嫌いか。


だからこそ、どうそれらを動かしたら、幸せになるのか、不幸になるのか、という内面操作的な戦略を立てられる。少なくとも、好みの境界線を知るためには、「経験」を言葉に置き換えることだと思う。


それで「私は、○○が好きで、嫌いだ」となる。そして、その境界線を書き換えるには、今までしたことのないことにトライ・チャレンジしてみるしかないのだろう。


こういうことを意識していると、自分と他人が異なる存在である、という至極当たり前の事実を意識しやすくなる。何が好きで嫌いか、ということもあるし、好き嫌いの対象が、同じものでもその感情の強さには、グラデーションがある。


ところが、欲求が先鋭化してくると、0か1のデジタル思考になっていまいがちだ。加えて、それが普遍的な欲求であるとされるものほど、「みんなと俺の欲求の強さは同じくらいのはず」と思い込む。欲望を標準化してしまう。


食欲とか性欲とか、承認欲とか。


たとえば、知人に「この前、ブログで結核菌のこと書いた」といったら、「そんなカタイこと書いたら、誰もコメントしてくれへんやろ」と言われた。


その人の中には、「普通は、自分の書いたものに何かレスをつけてほしいものだ」という思い込みがあるわけだ。自分の場合、mixiのような馴れ合いのやり取りだったら、大体が好意的なものだと思われるのでいいけど、


そういう横のつながりがまったくなくて、どこの誰から見当はずれな言いがかりをつけられるのか分からない環境だと、あんまりコメントしてもらいたくない、と思ったりする―――実際に、以前書いた記事にブクマが10個くらいついていたことがあったけど、好意的なものは1つで、あとは意味不明だったり、悪意的だったりする。人畜無害なのはいいけれど。


じゃあ、なんでブログに書くのかといったら、「誰がこのページを見ているのか分からない」という不確定感が頭を刺激し、書く意欲につながるからだ。そして、いろいろ書く中で、発見することがある。知っているものの組み合わせのはずが、途中で面白いアイデアが産まれたりする。そのためだけだ。


というと、冷たい感じがするけれど、フェース・トゥ・フェースの親密な付き合いじゃないのだから仕方ない。ある程度、道具的にモニター先の人を利用してしまうのは、ネット上だったら、誰でもやっていることなので、いちいち言うことでもないけれど。


というわけで、ここまでがイントロダクション。


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コミュニケーションにこだわる理由。


けっこう自分はコミュニケーションの方法にこだわるが、それは人間関係の目的に関係していると思う。


だいたい、自分は3つに分けている。

1.安心
2.協力
3.学び


おしゃべりであれば、1。議論や対話や連絡であれば、2や3。
目的と方法はセットだ。これらが混線すると、コミュニケーションの意味がなくなる、と思う。


どうでもいいおしゃべりに、真面目な議論のモードで話されたり、逆に真面目な議論のときにまったく関係ない茶々を入れられると、イライラする。前者は、無神経な合理主義だし、後者はうるさい感情論だ。どちらもそれぞれのコミュニケーションの目的を阻害する。


ともかく、自分はコミュニケーションに神経質気味に「正常性」を求めてしまう人間である、ということを自覚しておこうと思ったので、書いた。


なぜ神経質になるのかはひとまず置いておくにしても、ともあれ、うまく欲求を叶えようと思うほど、人は0や1というようなデジタル思考で物を考えてしまう、ということだ。自分の場合は、コミュニケーションというものを分析して、場合わけしているが、これはデジタル思考だと思う。


ホルクハイマーのいうところの「主観的理性」が発達してしまう、というべきか。俗っぽい例でいえば、ナンパ師が、どうすればより多くの女の子をゲットできるのか、ノウハウをルーチン化しているみたいな話だ。


そこまでならいいのだけれど、やっかいなのは、前述のように「他人も自分と同じように思っているはず」という思い込みだ。たとえば、ブログのアクセス数を増やそうと躍起になっている人からすれば、このようなカタイことばかりを書き出しているこのようなブログは、「なぜこんな誰も読まないようなことを書くのか?もっとウケるようなこと書けばいいのに」という話になる。


一応書いておくと、自分の場合、「誰かに読まれている可能性がある」というだけで十分なのであり、実際に多くの人に読まれるか、理解されるかどうかはどうでもいい。


「お前が書くことなど、どうでもいい」という他者の声を強く内面化しているせいだろう。実際、多くの人にはウケないことを書いていることは自覚している。


というわけで、このブログを読んだところで、大体の読み手には、たいしたメリットもデメリットもないでしょう。有名になりたいとか、自分のスタイルとか、見識の正しさを世の中に主張したい人であれば、上記のことなんて、想像もできないだろうけど。


有名人などであれば、好感度が大事になってくるので、モノローグ的な書き方かダイアローグ的な書き方かに関わらず、自然とポジティブな書き方になるだろうけど、匿名性に埋もれてまったく無に等しいこのブログにおいては、法に触れない限りで、好き勝手書く。


こう書いても、投影してしまう人というのは、「承認欲求が挫折してしまったせいで、こんなあきらめたようなことを書くんだ。情けない。もっと読んでもらえるように工夫してアピールする努力もしないで」という話に回収してしまう。あるいは、はっきりとは書かないけれど、「あんまりレスをもらいたがらない変人もいるようですが・・・」みたいな間接的な皮肉とか。


こういうのが嫌だから、コメントとか、ブクマの一言が欲しくなくなるわけですが笑


まあ、そんなところで、今日はここまで。