快に満ちた文明

【システム8】


憩室炎で入院した祖母の手術も先日、無事終わり、ようやく今日には点滴が外れた。母は病院に泊まらなくても済むようになった。


祖母と同室の高齢の女性について、母が「足が枯れ枝のよう」といいながら、「自分はああはなりたくないから、意識のあるうちに、(リビングウィル)書いておこう」と言っていた。


「もう痰を管で(吸い)とるときなんか、涙流してるんだよ。あんなの見たら、さっさと死んだほうがいい(と思う)」


地元の病院は、よくある老人病院だ。ほとんどが高齢者で、寝たきりの入院患者が検査のために、ストレッチャーで運ばれる様子はしばしば見られる。自分は、その病院に実習しにいっていた当時、中間登校日で会ったクラスメートに冗談で、「死臭が漂ってる」と言ったが、その印象は全面的に間違ってはいないと思う。


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2ちゃんねるで、たまたま「介護職で働いてるけど・・・」というまとめスレを読んだ。


老人の介護は、汚物の処理と隣り合わせにあることが伝わってきた。で、最後にスレ主がこう書いていた。


「じじいばばあになっちまえば後はゆっくりと自分の肉体が朽ちていくのを見守るだけさ・・・だからみんなは若いころにハメをはずしてやりたい放題するべきだと思うんだな」


「聞いた話」に過ぎないけれど、ひたすら病院や介護施設に拘束されて、思い通りにならない体で、ただただ死ぬまで生きていく・・・という老年観を持っているわけですが、これは別に特殊なイメージではないでしょう。


加えて、認知症で、周囲の世界をうまく認識できずに不安になり、叫ぶ、汚物を手でこねるとか、拘束具を着せられ、鼻からチューブで流動食をただただ流し込まれるとか。


そんな老年を乗り切るには、どうしたらいいのかってことで、普通の人が思いつくことが、「自由で若い頃に、いろいろ楽しい思い出をつくって、それを思い出すこと」じゃないだろうか。


その論理でいえば、「若いうちが華」であり、若くなくなったら、人生を楽しむことはできない。しかも、少なからず若いうちにたいして快楽的な生き方をしていない(自分のような)人々は、人生で楽しい時期もないまま死ぬのを待っているだけ、というかなりペシミスティックな話になってしまう。いや、それを受け入れたい人は、受け入れたらいいけど。


ともあれ、そんな病院や介護施設は、「姥捨山」だと形容されることもあるくらいだ。


一方、「若さ=新奇さ」を喧伝するマスメディアを中心としたアジテーションが、高度な消費文化を支える―――なんていっても、おおげさな話ではなくて、自分たちの消費活動そのものだ。ファッション雑誌見て、「今年の流行はコレ!」というものを身につけるとか、朝のニュースで、「最近流行の○○は〜」と放送されたものを買う。ただそれだけのこと。


なんだか、このギャップが、やけに不気味だ。ほとんど単一民族で、諸外国と比べてたいした文化的衝突もない日本ですら、この断絶を頭のなかで相互に比べてしまうと、なんだか寒気がする。


自分の単純なこの現実感を図式的に言うと、かたや消費文化に身をゆだね、そこでの自己実現を図ろうとする人々。かたや“姥捨て山”に拘束され、死を待つだけの存在。かなりの断絶があるにもかかわらず、この二層は、不可逆的な時間の流れにがっちりつながれている。もちろん、こんなシンプルな図式に収まりきらない「現実」も少なからずあるだろうけれど。


まるで、死臭のただよう老年には、見えないベールがかかっていて、何も知らない人々は、享楽的に、真面目に考えずに、老年に向かうエスカレーターに乗っている。たぶん、自分もそのうちのひとりだ。


こんな文章を書いてるくらいだから、半分くらい目が覚めかけているのかもしれないけど、完全に覚醒しているというわけでもない。たぶん、本当に目が覚めたら、仏教的な意味で、悟りを開いているだろう。


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そんな現状を分析した最近の本では「無痛文明論」というものがあるようだ。


http://www.book-navi.com/book/syoseki/mutu.html


要約は上記のページにゆずるとして、多少自分が思ったことを書き添えたい。


前回の記事では、思考が文明・文化を形作るものだ、と書いた。これは養老孟司氏がいうところの「脳化社会」「意識中心主義」だ。


人間の思考は、「死にたくない」から始まって、「5感を刺激したい」という欲望に貫かれている。それに加えて、それらを得るための「破壊欲」が加わると、仏教のいうところの「渇愛」と呼ばれるこころのことを指します。


その思考が生み出した社会が、「無痛文明」だ。快楽を増幅し、苦痛を見えなくする文明。ハイデガーっぽく言えば、「文明が頽落している」という感じだろうか。


無痛文明論」を書いた森岡氏は、「身体の欲望」と「生命の欲望」という風に欲望をふたつに分けて説明している。前者は表層的な気持ちであり、深層的には所有物をすてて、幸せになろうとする「生命の欲望」がある、という。


まるで、キリスト教の教義の焼き直しにも聞こえるけれど、明らかに違う点は、禁欲的になりたがる反欲望的な欲望がある、と森岡氏が想定している点だ。キリスト教の場合は、「身体の欲望」にこうして、善を行う「自由意志」がある、という話なので。


ともあれ、この議論が宗教的な話に近接していることは否めない。とはいえ、快楽主義者というわけでもないし、仏教的な思考に慣れている自分には、この議論にはなじめる。それを徹底できるかどうかは別として。


ちょっと面白いと思ったのが、娯楽産業の内部に、自分の人生を自省するような装置を仕掛ける、というアイデア。たとえば、映画が、ただの娯楽ではなく、何か人生について考え直させるような内容のものを多くするとか。


とはいえ、そういったアイロニーに富む作品など、現代日本では、望むべくもないのかもしれない。娯楽とアイロニーは水と油だからだ。娯楽を追及しないと、金にならないわけだから、これは現実的には難しい。


齋藤孝氏は、著書「退屈力」のなかで、このような社会を「高度刺激社会」と呼んでいるけれど、個人のレベルで、そのような社会に対抗するには、地味な練習でも積み上げて努力することで、技を磨き、本当の感動を手に入れることだ、と主張する。


自分の場合、コミュニケーションの型とかを考えたり、アイデアを一年以上書き留めてストックしていることを続けている。それは、分析対象に対して、なるべく誠実に厳密に、また柔軟に多面的に考えられるようなスタイルの醸成につながっている、と思う。それが、内面的な自信につながっている気がする―――他人から見て、そう見えるかどうかは別問題。


とりあえず、過度に快楽に浸るのではなく、地味な活動にこそ、充実感を感じられる生き方を模索していきたいと思う。後悔しない人生とは、「日々是好日」を積み重ねていくことではないだろうか。


まとめ 

☆死や老いは、生を反照する。

☆内面的な技を得られるような生き方をする。