空気を読む?

【生活世界9】

☆会話のコーディネート力


自分は、人とそれほどベタベタしないわりには、「コミュニケーション能力」というものについて、こだわって考えているほうだと思う。こだわるようになったきっかけは、自分が思想・哲学という分野に関心をもつ契機になったとある一冊のエッセイが原因だけれど、それはまた別の話。


ささいなことだけれど、昨日クラスメートとしゃべっていて、気づいたことがあったので、再考する意味もかねて書き出したい。「空気を読むことについて」という、ちょっと前に流行った話題だ。


『「空気」と「世間」』(鴻上尚史著)という本がある。その本をたまたま書店で発見したとき、ちょうどmixiのコミュ二ティで、「世間とは何か?」というトピックを自分が立てていて、それを考える上で、トピと同名の『「世間」とは何か?』(阿部謹也著)という本を参照しようとしていた。


『「空気」と「世間」』を手にとって読んでみたら、阿部氏の議論を援用しながら、日本的な「世間」が壊れたものが、「空気」となっているのだ、という主張をしている。パラパラと読むうちに、とても感動して、買うことにした。


マズローの5段階欲求説に従って言えば、「愛と所属の欲求」をいかに満たすのか?という問題意識ですが、それに基づいて、鴻上氏は、いくつか選択肢を提示している。


1.「世間原理主義者」になる

2.「共同体の匂い」に支えられる

3.「家族」に支えを求める

4.ほんの少し「強い」個人になる


ひとつひとつ詳述はしないけれど、簡単に書く。

1について。過激な右寄りの人々で、それに反するようなものをつぶす人々。代表的なのは、キリスト教福音派や、ネット右翼など。「(共同体の)原理や同一性の強制」を求める


たとえば、福音派であれば、たとえレイプされて妊娠したとしても、子供は中絶すべきではない、という考え方になります。それが聖書の言葉(=原理)だからです。短所は、延々と攻撃対象を見つけなくてはいけないこと。


2について。壊れかけた「世間」にすがりつく、という手段。自分は以前、これを「友達ごっこ」と表現していたけれど、今でもその感覚は変わらない。つまり、「空気」を読んで、その場に適応し、包摂されている、という感覚を得る目的があります。


しかし、「多数派はだれか?」「多数派の判断は何か?」というふたつについて、常に意識しなくてはいけないことです。多くの日本人に当てはまるのではないでしょうか。D‐リースマンという社会学者の言葉を借りれば、「他者指向型」です。


3について。家族は、最小の共同体の単位だとか言われますが、そこに安全基地(=安心と信頼の場)を求めるあり方。しかし、密な関係性ゆえに、抑圧と否定の場にもなりえる、ということです。


ちなみに、個人的な考えを書くと、もし家族間で、否定的な関係性が長いこと続いていたら、もういったん「家族」というものに対する過剰な期待や願望を一度捨て去ってしまうことです。潜在意識に「ああしてほしいこうしてほしい」と書き込まれているから、いちいち不満になるわけなので。


自分はその方法をしたら、逆に安穏な関係性になりました。「家族なんだから、ここまでしてくれて当たり前」という思い込みをギリギリまで捨てる、ということです。


自分は、父親には「とりあえず金を稼いでもらえばいい」、母親には「とりあえず、料理などの家事をやってくれればいい」という具合に考えます―――そんなの当たり前だろ、という人はたぶん、“幸福な”家庭で育っているのでしょう。よかったですね。


4について。あえて、「空気」を過剰に意識することなく生活する、ということです。「裸の王様だ!」と叫ぶ子供のように。KYになっても気にしないという。しかし、自分を価値の源泉として生きる生き方はしんどいと思います。


ニーチェという哲学者は、キリスト教のような既存の奴隷道徳に従うのではなくて、自分自身が価値を創造するべきだ、というようなことを言っています。


字面だけ見れば、カッコいい生き方のようにも思われるけれど、結局、ニーチェ自身は、「人間をやめて、超人になるべき」というテーゼを、著書の中で、多くの人に読んでもらいたくて―――「奴隷道徳」に従って、書いています。


そして、神経症になるまで思い煩い、精神を病んでしまった。自分自身を価値の源泉とする生き方の不可能性に直面するほど、絶望的に苦しくなってしまう、ということなのでしょう。


そういえば、ネットでの知人で、「私は風俗嬢だけど、ニーチェの思想に心酔していて、快楽を与える性行為は、善行為だと思う」みたいなことを書き込んでいた人がいたけど、なんかそうでも思わないとやっていけないのかなあと思ったりする。


勝手に想像すると、何かが原因で、風俗嬢になったけれど、社会的にいい目で見られないと分かっているので、「私は風俗嬢の営業が善である、という価値を創造する」と思わなきゃいけない、ということ。まあ、他人の脳の中など、分かりっこないけれど。ちなみに自分に言わせれば、風俗みたいなのは、性犯罪を抑止するための必要悪だと思う程度で、善とまでは思えない。


だいたい、こんなまとめですが、鴻上氏は、ひとつ提案しています。それは、ひとつの「世間」に属するのではなく、複数の共同体にゆるやかに属することで、安心の場所を増やす、ということです。その上で、ネットの肯定的側面についても指摘しています。


まさに、自分の対人感性そのものなので、けっこう驚きました。ネットで気の合う人たちとやり取りをし、現実の「世間(=利害関係のある人間関係)」だけにこだわらない。逆にそれは、「若者のコミュニケーションのフラット化」として、マイナスに論じることもできるわけですが、そのことについても多少言及します。


ケータイなどのメディアが普及したおかげで、人間関係がカンタンに取り替え可能になってしまったという話ですが、それだと本当に安心できる安全基地がないので、心が不安定になりがちである、という問題があります。とはいえ、鴻上氏の議論と二項対立的に捉えるのは、ナンセンスです。入れ替え不可能な関係性を一握り持つことが出来れば、あとの大多数の関係性は、適当に「友達ごっこ」でやったらいい、ということです。


で、ようやく「空気を読む」という話になってきます。「社会」と接続する―――つまり、複数の共同体のなかでゆるやかな関係性を築くことで、安心を得るためには、そのための「適切な言葉遣い」と「会話力」が求められます。


「適切な言葉遣い」とは、「ですます調」です。これは、風通しのよい言葉遣いです。自分が言っているのではなくて、『「関係の空気」「場の空気」』(冷泉彰彦著)という本にそういう指摘があります。


「タメ口」は、「関係の平等性」を構築するものではなく、ホンネや、種々のこまやかな権力関係を持ち込むことにつながるので、逆にフラットな「ですます調」が「空気」を安定させる風通しがよい言葉遣いである、というのです―――ちなみに、自分は、このブログでは、あえてタメ口とですます調を混ぜて使っています。ある程度、読み手が引き込まれるような工夫です。


で、次に「会話力」。自分は3つにその要素を分けていますが、ここでは、その一要素である「コーディネート力」について、気づいたことと一緒にまとめます。


会話のコーディネート力↓

①配分力:自他の話す量を5:5にする


②空気を読む力:相手の気持ち・場の空気を察して、自分の反応を決めていく。


③文脈力:話題が何であるか、しっかり押さえている力


④ボディ・ランゲージ力:肯定的なボディ・ランゲージを使う・まねる。相手のボディ・ランゲージを読む(ミラーリング・ペーシング・リーディング)。


で、今日は、②について気づいたことを書く。


以前書いた「クローズ・トーク(一部にしか通じない会話)」「プライベート・トーク(私的な話)」という区分がありますが、これらの話には無理に関わらないようにする、ということです。


もちろん、じぶんがその輪の中に入っていればいいわけだけれど、入っていない場合は、いったん一息を入れて、耳を傾けるだけにしておく。「なんだか、会話を入らないと、自分だけ取り残されるんじゃないか?」と思って、気持ちだけ前のめりになることはない、ということ。


分からないのに、下手に会話に加わろうとすると、いちいち説明をしなくてはいけないので、それを繰り返していると、相手を疲れさせるから。一息いれて、会話の流れを押さえ(文脈力)、会話の隙間を見つけて、適当に会話に参加する程度が適当だと思った。


多くの「世間」は、「クローズ・トーク」や「プライベート・トーク」で、その親密さを形成させていきます。だから、その会話に加われない人は、「よそ者」です―――「世間」の特徴のひとつに「差別的で排他的」がある。壊れかけた「世間」―――つまり、「共同体の匂い」にすがって生きようとするならば、「空気を壊さない」ようにすることが大事かと。


とまあ、こんな感じで。以前書いたような「対人シーンでの感情労働」をこなすには、いろいろ気をつけるべき項目があると思います。気をつけなくても、「世間」の中なら、なんとかなるかもしれないけれど、「社会」―――多くの見知らぬ人も含めた人々とうまく接続していくためには、窮屈かもしれないけれど、ある程度のルールに従った振る舞いのほうが、かえって、「自由」だったりする、という結論。


まとめ

☆複数の共同体に属していたほうが、心理的ラク

☆無理に「クローズ・トーク」「プライベート・トーク」にはまらない。