ネット社会での承認
【生活世界6】
以前、病院実習をしていたが、途中で一時的に実習病院が変わっていた。そこでは、また別の実習生がいて、彼らに実習が終わった後に、食事しないかと誘われた。
自分のほかにも同じ病院に通っている実習生と一緒に、サイゼリアに行った。
そこで、クラスメートの実習生の一人が、ひたすら実体験のようなものを語る。自分は楽しそうなフリをして、質問を振ったりしていた。いわゆる内輪話というものは、自分のような外部の人間には、面白くないことが多い。その後も、来たかったら来たらいい、と言われたが、当然行くこともなかった。
そのまま、不完全燃焼のような気持ちで解散したが、それを通じて、おしゃべりの種類というものを考えた。
1.プライベートトーク(内輪話)
2.パブリックトーク(抽象的・公共的話題)
別のベクトルでは、
1.クローズトーク(一部の人にしかわからない話題)
2.オープントーク(話に関わるみんなが分かる話題)
この区分を用いて、どういう内容のおしゃべりにしたらいいのか、という考えは特に今のところないけれど、この前に、mixiにアップしたふざけた日記を通じて、思うところがあったので、ちょっと書いてみたい。
どんな日記であるのかは消してしまったので、詳しくは書けないけれど、とりあえず、自分の日常的なことを変なテンションで、書き綴ったという感じ。しらふなのに、酒に酔ったような状態の支離滅裂な文章を書いてしまうのは、何かおもしろい(文章自体が面白いというわけではない)。何かが憑依したのかもしれない。
いつもは、「パブリックトーク」を日記に書くことが多い。それに対して、大体、5〜6個のコメントがつく程度だった。しかし、この日記の場合は、ひとつもコメントがつかなかった。
「ああ、こういう日もあるのかー」という感じだが、よく考えてみれば、mixiのマイミクが、こちらの書く文章に対して、コメントを書く動機っていうのは、たぶん「パブリックトーク」だからだろう、ということに気づいた。
特にラポール(親密度)が形成されていないバーチャルな関係性のマイミクとは、パブリックな話題でしか、つながれないようだ、ということ。
なぜか長く日記でやり取りしているうちに、親しくなっているんじゃないか、という錯覚を起こしてしまう。しかし、そこを無視して、私秘的な話をしても、反応はしないのは当然だ。あと、変なテンションも手伝っているかもしれない。
「賢く生きる智恵」という本がある。バルタザール・グラシアンという人物のアフォリズム集だ。そこには、「人間的な面をみせすぎない」という項目がある。どんなに優秀な人間でも、あまりにも人間的だと思われると、非凡とは見做されなくなる、という。
自分が優秀だとか、非凡だとかいうわけではないものの、少なくとも、自分の名誉を自分から下げてしまわないように今後気をつけたい。あの変なテンションの文章は、油断しすぎて、「人間的なところ」を出しすぎたと思う。
もうしばらくmixiの日記は書かずに、こちらのブログで、どんどん文章を書き綴っていくつもりだが、何も反応がないことが分かりきっている状態、というのは、ある意味で心地よい。どんどん視野が狭くなる可能性があるわけだけれど、そこはmixiのコミュ二ティで対話しあうことで、どうにか解消したい。
とはいえ、ゆるい人格をリアル人間関係で承認してもらい、真面目人格は、mixiの日記を通じて、承認してもらう、というスタイルを崩して、mixiの日記でふざけてしまい、誰もコメントしなくなるような状態になったのは、けっこう自分にとっては、痛かった。
mixiでは、インタラクティブなやりとりをしやすいので(スカイプの話し相手を見つけやすいとか、コミュ二ティで対話しやすいとか)、やめるつもりはないものの、ひとつ拠り所を崩してしまったかなあ、という感は否めない。
そこでひとつ思うのが、「ネットの人間関係にマジで承認してしてもらおうとするのはどうなのか?」ということ。自分のマイミクは、ほとんどリアル知り合いがいないので、こういうことが起こってしまうわけだけれど。
でも、個々人を承認する「社会」というものは、言語を介して、共同主観的に構成されるものなので、言語を介して構築されるネット社会が完全なバーチャルだと言って、主観の中で、カンタンに切り捨てることはできない。
要するに、自分は尊厳値の低い、脆弱な実存である、ということだけは通じて分かった。人間関係を広げるストレスの一種ともいえるけれども。
まとめ