よろこびの両義性

【生活世界―システム3】

この前、「HOSTEL」という映画を観た。


ジャンルとしては、サスペンス・ホラー映画なのだけど、まあ18禁レベルのエログロ描写がてんこもりもりもなわけですが、


映画の設定としては、あるホステルに常に滞在している娼婦たちに誘われて、クラブなどに行き、そこで一夜過ごしたあたりで、相手を油断させておいたところで、


ある廃屋に男を誘い(あるいは、薬で眠らせて運び)、そこでデカイ男たちに受け渡す。その後は、個々の部屋に拘束され、オレンジ色の作業服を着たおっさんたちに虐殺される、と。しかし、おっさんたちは、基本的に楽しんで喜んで、やっている様子。


いわゆる「快楽殺人者」という奴らなわけですが、こういう極めて偏向した性癖の世界と「われわれ」は、違う。という前提があるから、(ブラックな)エンターテイメントとして成立します。


つまり、安全地帯から、異常性癖を持つ“モンスター”たちから、うまく隠れ、逃げ回る主人公の行動を楽しむわけだ。


ホームドラマなどの日常系の設定であれば、約2時間くらいで観客を感動させなければいけないわけですから、プロットをいろいろ組み合わせて、いかに「いかにもありそうだ(けど、なかなかない)」と思わせて、感動を追求するわけですが。


しかし、こういう非日常系の映画は、いかに刺激的なシーン・シチュエーションを詰め込めるのか、が問題です。とはいえ、その反面、中身の薄いもの(=重厚なヒューマンドラマではない)になりがちです。ちょっと前に流行った「恋空」なんかもそうなんだろう。


とはいえ、何か学ばないと損な気するので、何か書こうというのが、今回の主旨です。

―――――――――――――――――――――――――

ここで出てくる「快楽殺人者」たちは、自発的に残虐なことをする、というだけでなく、それに対して、喜びを感じています。


一般的に、人は「喜ぶ」ということそのものが、大事だと思っていますが、何に対して「喜ぶ」のかによって、話は違う。


「喜び」そのものは、客観的に見て、良い悪いという評価にはならないのですが、


何が現実的な原因となって喜ぶのが良いのか?って話。


ただ言えるのは、他人を侵害することを通じて、喜ぶのは、ダメだろうということです―――侵害には、迷惑も含む。


加えて言えることは、喜びにはモラリティが伴う、ということです。何をモラルとするのか、ここでは省きますが、かなりささいなことでも、モラルになりえる。


仏教では、「無財の七施」という教えがあります(「雑宝蔵経」より)。財産や地位のない人でもできる布施の行いを指す。


一応、書いてみる。

眼施」―慈しみのまなざし
和顔施」―おだやかな微笑
言辞施」―やさしい思いやりのある言葉
身施」―身体を使った奉仕
心施」―思いやりの心
床座施」―寝床、座席、地位
房舎施」―休み場所


書いてみると、わりとカンタンですね。友達にあったら、優しい顔をして、思いやって・・・という感じ。


わざわざこのことを言挙げすることはないのですが、とはいえ言葉の上ではカンタンにいえます。


モラリティのある言動と喜びの結合を身体感覚として、刷り込むための環境を備えた文化って、この世界にどれくらいあるのだろうか?


まあ、実のある実践をする仏教文化があるところでは、その典型なのかな〜と想像しますが。


ここ日本では、特にそういう宗教的文化はないので、自分自身に教育をするしかないんでしょうな。自分は時々、上記のことを忘れてしまうので、がんばって身につけたいと思います。


まずは、よいまなざしと笑顔あたりから。


なんか映画の残虐さからはかなり離れたクリーンな結論になってしまった(笑)