対人シーンに広がる感情労働?

【生活世界―システム3】

昨日、「エチカの鏡」という番組で、伝説のマナー講師 平林都という人の講義内容を放送していた。


徹底的な教え方で、鬼軍曹といった様子。教え方が鞭を振りかざしているようで、言葉と怒声でここまで人を調教できるこの人の体質に驚いた。


それはともあれ、「接遇」という営みは、「感情労働」というカテゴリーに入るらしい。「感情労働」とは、社会学者のホックシールドという人が生み出した概念で、感情レベルでの管理された労働行為のことを指す。


どうも感情労働というのは、ヨーロッパ人はあまり持っていない発想らしい。西欧人の中では、アメリカ人がかろうじて持っていて、先進国であれば、日本だと。


アメリカでは、それは「技術」であったけれど、日本人は商文化の名残でできていたのかもしれない、という指摘がある。


しかし、その文化も崩れてきて、社会的に感情労働の能力を高める場所がなくなってきている、加えて、アルバイトや契約社員が増えてきて、接客技術が低下してきているともいう。


というわけで、「感情労働」は、文字通りの「労働」になってしまった、と。昨日の放送を見ていたら、「感情労働の奴隷」を作ろうとしているのかな、とさえ思えた。


よく学校の部活動などで、きつい先生が厳しく指導をし、それに対して、眼に涙を溜めて、「ハイ!!」と生徒たちが元気よく返事をし、大会などに出場して、結果を出したら、「あの時、先生が厳しく言ってくれたから・・・」と“感謝”するような、ドM体質の人には、けっこう教育的効果があるのかもしれない。


自分としては、(自分と関わらないのであれば)こういう教育はあってもいいかとは思うけれど。


感情労働」というものが、稀少化してきたから、こういうのがテレビで紹介されるまでになるのかな、という気がする。


しかしながら、一般的な人間関係でも、「感情労働」をしているって言えないだろうか?「作り笑い」に代表されるような対人関係をこなすためのスキルがそれだ。


特に、現代日本の若者の「空気を読む」ような人間関係が優勢になってきている状態、言い換えれば、過剰なやさしさが対人シーンに蔓延する状態では、対人関係をあたかも「労働」であるかのようにこなす「会話力」などが必要になってくるのではないだろうか?―――ここでの「会話力」とは、ただただペラペラと一人で喋る力ではない。聴く力や、会話そのものをモニタリングするような力も含めた概念だ。詳しくは書かないけれど。


このまえ、2ちゃんねるで、「会話力を向上させる」ということをコンセプトとしたスカイプ会議があったので、参加してみた。


そこでは、会話力が足りないと自称している人々が集まり、自己紹介・会議に参加する動機などを語ったり、一人の人に集中的に質問を繰り返すなどのトレーニングをした。


ある人が、「なかなか言いたいことを言葉にできない」というので、自分が「頭の中のもやもやとした言いたいことを、言葉に素早く変換する能力を高めるというのが、課題かもしれませんね」といったら、本人は「いや・・・それが課題かどうかはわからないですけど・・・」と言った。


あまり納得はしなかったが、その後、ある人が「○○さんは、けっしてしゃべる力はないとは思わないんですよ」といい、以前、何かを上手く説明した例を挙げて、「そのままでいい」とその人をフォローする人がいた。


そのままでいいなら、向上はないだろと思いながら、「でも、この会議の目的は、会話力の向上ですから、会話力を高めることは前提になってますよね」と言ったら、「うーん」といって、黙ってしまった。


ハッキリ言って、こちらが指摘したその人の喋り方は、どうでもいいことでも、熟考してぼそぼそと喋るかのようなところがあり、軽快でハッキリしたような喋り方ができないようだ。別に喋らなくても、聴く力を身につける方向性でもいいのだろうけど、それも結局、素早い情報処理能力が要る。その意味でも、頭で自他の「言いたいこと」を要約する能力は必要だ。


先の例のような「過剰なやさしさ」は、ただの甘やかしで何も向上につながらない。どんな種類のやさしさもダメだという極論ではないけれど、精神疾患を治療するのではないのだから、そんな「そのままでいい」式の森田療法的な態度では、話にならない。


と漠然と思っていたら、こちらのことを指して、ある人が「ハッキリ言いますね」と言われた。別にこれくらいでは、ハッキリしているとは思わないけど、時々言われる。逆に気遣いが足りないのかもしれない。とはいえ、そういう過剰なやさしさは、ウザイだけと感じるので、そういうキャラには今後もならないだろう、とも思う。


ここまで書くと、日本社会に蔓延する若者の「やさしい関係」に適応する会話術を身につけるために、問題の焦点をぼかして、すぐにあいまい化しようとする“やさしさ”を排除しようという発想は、ちょっとねじれていて、おもしろい、と思う。


自分が身につけようとしている会話力では、「やさしさ」ではなく、「共感」と「眼から鱗」のふたつが重要なわけだけど。


まとめ

☆日本社会における「感情労働」は稀少化している

☆対人シーンでの「感情労働力」=「会話力」も大事

☆「会話力」は、共感と眼から鱗の体験を引き出すのが主目的。過剰なやさしさは、不要。