コミュニタリアリズム

【システム1】


今後、具体的な社会的問題とされているものについて、自分なりに論点整理をしていきたいと目論んでいたりする。


で、社会的問題を考える上での、最低限抑えておかなければいけないことがある。


前回も書いたけれど、「公共的な善」ってやつです。2ちゃんとかのネット上で、事件や社会的問題の記事に対して、「こうなって良かった/これはダメだろ」とたいして熟考したとは思われない“判定”がしばしば見られる―――感情的な反射的書き込みというのが近いかもしれない。しかし、


「この問題をジャッジする上では、こういう公共的な善が想定されているはずだ」ということを考えたほうがいい、と思う。「そもそも公共的な善というものを考えるとはどういうことか?」ということは今は立ち入らないけれど、必要に応じて変化させていける「法律」そのものを神聖視して、固定的な判定基準としてしまうのは、賢いとはいえないと思う。


なぜなら、法律は普遍的に通用するものではなく、どこで副作用が出現するかわからないからだ。副作用が大きければ、少なくなるような法律に変化させなきゃいけない。そういう意味で、現行の法律がうまく機能しているからって、将来的にも信じられるものであるかは分からない。


しかし、「公共的な善」とは、法律と違って、具体的なものを規制するわけではなく、「この共同体が回るために、どのような方向性を持たせるべきなのか?」という「大きな話」と関わる―――ここでは「共同体」の種類は言及しない。問題をどうにかするには、方向性を決定する「ヴィジョン」が大事です。「公共的な善」が社会の「方向性」を決め、「法律」がその方向に進むための具体的な「道具」ということになります。


しかし、この考え方には、決定的な問題点がある。アイザイア・バーリンという政治哲学者によると、『政治的目標に「積極的自由」をおくべきではない』という。「積極的自由」とは、「〜への自由」とも言われるが、外部からの働きかけによらずに「自己決定」する自由です。これが個人的な目標であれば、たいしたことはないけれど、政治的目標にまで広がってしまうと、全体主義につながりかねないから、ダメだということです。


じゃあ、どう考えようか。「公共的な善」を単一的・実体的に描いて、そこに向かって、大衆を動員する考え方と混同されないためには(いや、元からそんな考え方はしていないが)。


とりあえず、自分は「公共的な善」をふたつの方向に分けます。


1.「善の希薄理論(thin theory of the good)」への批判(負荷なき自己への批判)


いきなり学術的な話になってしまいますが。


リベラリズムの哲学的基礎付けを与えたロールズの理論を自身がそう呼んでいる。全員を強く拘束する「善」ではなくて、そのニーズが広く共有されていると思われるうすーい「善」を設定することです。広く共有されているニーズのための拘束(富の再配分)であればいいかな、と。


マイケル・サンデルという人は、それぐらいの理由じゃ、「みんな」は「善く秩序付けられた社会」に目指そうなどとは思わない、という。


基本的に個人主義的な近代自由主義では、「自分がどうしたいのか」分かっていて、それに向かって、合理的に追求する「自我」の存在が想定されています―――実感から言えば、自分がどうしたいのかとか、さっぱり分からないけど。


「自分のしたいこと」を自覚するためには、自己理解が必要だけれど、自己完結的に考えるだけでは分からないことが多い(負荷なき自己への批判)。サンデルによれば、各種の「共同体」における暗黙の慣習とか相互了解が、自己理解の基盤を提供している。


つまり、「自分」と「みんな」との(暗黙の)やりとりを反省することで、「自分」がよく見えてくるってこと―――平たくいうと、「みんな」のあり方が、自分のあり方に大きな影響を与えている、ということ。社会学的なものの考え方が凝縮されてつまっている概念である「社会化」のことだ。


自分のことをよく知るには、自分を知るための「みんな」にとっての「善」を追求しなきゃいけない。自分なりに噛み砕いて言うと、『自分のやりたいことを見つけるには、みんな(=共同体)にとっての「善」を考えなくてはいけない』。


つまり、自分のやりたいことを見つけるために「公共的な善」について、考えなきゃ、ということですな。具体例はのちほど。



2.多元論的な善


とはいえ、個人主義を批判して、共同体的な価値を見直すことをいうと、「リベラル」側から、“保守反動”を生み出す危険性があると見られがちなようです。だから、「自己理解=自分は何をしたいのか?」を考えるうえで、「共同体」的なものを見直すことは不可避だけど、「共同体」的なものに距離をとる立場もある。


マイケル・ウォルツァーという人は、究極的な平等を目指すのではなく、それぞれの社会の政治的・文化的特性を前提にして、各領域のあいだでバランスをとった複合的な平等を構想すべきだと主張したようです。


たとえば、貨幣、公職、教育、労働だけでなく、愛情、家族関係、宗教、人格の相互承認について、政治権力についても、「平等」を考える。各領域ごとの「平等」が大事だということです。


チャールズ・テイラーという人は、あらゆる価値の源泉とのつながりを見失っている自己疎外状況から脱するために、身体的存在、共同体的存在としての「自己」を見直すことを主張しているようです。平たく言うと、「俺、なんのために生きてるんだろう?」というところから、身体を持った自分、「みんな」と何らかの形でつながっている自分を見直すということです。


そこで、自己の中にある「共通善」を再発見する必要がある、というのはサンデルなどと一緒だけれど、「共通善」を多元的なものであることを強調するのは、ウォルツァーと一緒。


自分なりに勝手に解釈すると、「Aを善と考える人」「Bを善と考える人」「Cを善と考える人」・・・といった風に、異なる価値観を持つ人々が、お互いに共存できるような状態が、理想である状態です。


時間がなくなってきたので、駆け足で1と2のまとめ。


1.自分のしたいことを考える上では、自己完結的に考えるのではなく、「共同体の善」とのつながりの中で考える。


2.「共同体の善」は、多元的なもので、各領域で平等を追求すべき。そして、お互いのあり方が共存すべき。


このふたつを元に社会的な問題などを考えてみたい。あー難しいなー。


もっかいまとめる。


3.社会的問題→共同体の善→自分のしたいことを自省する。


4.社会的問題→共同体の善→(各領域における)平等&各人の「善」の共存を考える


自分の考え方は、コミュニタリアリズムに近いようだ。


参考:集中講義!アメリ現代思想 リベラリズムの冒険