「私憤」を「義憤」に転化する意味は?

【生活世界―システム1】


自分は、本屋に行くと、衝動的に本を買ってしまう癖がある。で、このまえもツタヤで買ってしまったのが、「凡人が一流になるルール(齋藤孝著)」。


偉大だといわれる実業家たちの行動パターンを抽出化して、ルールとして提示している本。エジソンカーネギー渋沢栄一豊田佐吉小林一三、フォードの六人について挙げられている。


齋藤孝氏の『「型」にしたがって、トレーニングを行い、実力をつけていく』という考え方は、自分個人のものの考え方に大きく影響を与えたと思っているが、それはまた後に書きたい。


その中で、渋沢栄一のルール2として挙げられているのが、「怒りを義憤に変える」というもの。


ここで述べられているのは、怒りを「競争動機」による矮小な行動に結びつけるより、社会全体を変えるような大きな目標に結びつけて考えるほうが、大きな仕事を成し遂げられるということです。とても健全な発想だと感じられますが、「私憤」を「義憤」に転化できる意義の分岐点ってどこなのだろうか。ちょっと考えてみたい。


1.実践しなきゃダメなのか?
2.私憤の内容はいかにあるべきなのか?


1について。ここでの趣旨は、「大きな仕事を成し遂げるための発想の仕方」を説いているわけだけれど、そういう実益がないと、「私憤」を「義憤」に変える意味はないのだろうか?


これを考える上で、ちょっと自分の体験を書いてみたい。自分はmixiの日記上で、ある人物から言葉狩りにあったことがある。経緯を簡単に書く。


マイミクが不倫についてどう思うか、というテーマの日記を書いていた。他の人は「良い/悪い」の次元で語っていたので、ちょっと刺激を与える意味で、「そもそも結婚制度とは、所有制度である」とエンゲルスの説を援用して、メタレベルの内容を書いた。


そうしたら、ある人物が、「違います。所有などという考え方をするあなたは傲慢で寂しい人間だ」などと見当外れのことを書いてきた。たぶん、女性を物のように好き勝手に扱う、非道な男だと勝手に見做して、脊髄反射してしまったのだろう。


こちらが書いた「所有」というのは、貞操の義務や相互扶助の義務などを指しているのであって、配偶者に対して、支配的に接するという意味ではない。


そこで、そのような反論をしたら、さらに相手は怒り、まともにこちらの反論を読めなくなっていたようで、「所有という考え方をするあなたの人間性が透けて見える」「所有などという考え方をする人間が大嫌いだ」などという人格攻撃がさらにエスカレートしてきた。かなり欝になったが、ここまで来ると、もう逆に笑えてきて、無視することにした。結局、この日記は、書き手の配慮によって、削除された。


一度、特定の言葉が耳に入ると、あとにどのような内容を聞いても、頑なに耳を閉ざして、言い分だけを一方的に言い募るお子様のような人間のことは、『なぜ「話」は通じないのか』というエッセイ本で知っていたが、実際に遭遇すると、冗談にならないほど苦痛だ。


しかし、ここで話を終わらせてしまったら、「私憤」のままに終わってしまう。そこで、「感情によるバイアスに負けないくらいのタフな言語能力(=対話能力)を身につける教育制度が必要ではないか」という考え方をした。いわば、これは「私憤」から「義憤」への転化だ。こんな風にちょっと聞きかじっただけで、噛み付いてくる人間が出てくるような文化圏に住むのは、いやだと感じるからだ。


しかし、自分は社会的には全然いないと同じくらい無名の人間だ。そんな人間が、大げさに教育制度について考えてみたところで、大した意味があるのか?とも思えてくる。大して、「実践」してやろうという気にもならない。一応、自分の中では「対話能力」における「気をつける項目」というのはリストアップできるけれど。


最近では、総選挙も近いけれど、結局のところ、政治家に委託するしかない、というおもしろくない結論にしかならない気がする。


実践しないと意味がないかどうかは、次の内容ともかなり関わってくる。


2.私憤の内容はいかにあるべきなのか?


私憤の内容が、かなり偏っていて、わがままにしかならないような場合には、義憤にはなりようがない。「なぜ自分のような人間がモテないのか?こんな社会はおかしい」とか言ってみてもね。


私憤と義憤が橋渡しされるためには、「公共的な善」を志向するという発想の回路が必要だと思う。『みんなにとっての「善」とは何なのか?』ということを常に議論しているような風潮や空間の設立が必要になってくるでしょう。


さっきの話に戻れば、「言語能力のための教育」というのは、政治的テーマでいえば、他の重要な社会的問題と比べれば、かなり後回しにしても問題ないレベルだという気がする―――考えようによっては、種々の重大な問題を語るための能力を培う教育制度が必要だ、という議論もできるわけですが。


つまり、私憤の内容が、1.「公共的な善」と結びつくこと、2.その「公共的な善」の中でも、共同体成員にとってより重要な内容である、ということが必要条件だということです。何をもって「公共的な善」と見做すかは、一応民主主義社会なので、国民のコンセンサスが得られるかどうか、ということにしておきます。コンセンサスを得られた内容が、必ずしも自分たちの利益になるとは限らないわけですが。そこらについては、後日考えます。


今までの内容をふりかえると、


私憤を義憤に変える意義


1.義憤の内容を実現できる方向に活動しないと、あまり意味はない―――「活動」には、政治的な意味だけでなく、言論的なものも含むと考えます。


2.義憤につながる私憤の内容が、公共的な善と結びついていないと意味がない。


ということになりそうです。


何かに腹が立ったら、「この怒りは公共的な善と結びつくだろうか?」と「共通感覚」を用いて、考えてみると面白い気がします。


しかし、言語能力(=対話能力)を高めることは、公共的な善だと思ってくれる人ってどのくらいいるんだろうか?