「なぜ死んではいけない?」を考える

【生活世界3】


かなり重たいネタになってしまうけれども、考えてみたい。


mixiをやっていたら、「考えることは新たな疑問を生む」っていうコミュ二ティがあって、それに参加しているが、そこで「なぜ死んではいけない?」というトピックがあった。


こういうのに関心を持たない人は、そういうことを真面目に考えてしまう人に対して、「おかしな奴らだ」って思うかもしれないけれど、


『人間の文明の営みそのものが「死の否定」である(E・ベッカー)』というテーゼから考えてみれば、文明の営み―――労働をしたり、文化的活動に参加したり、慣習に従って生きたりすること―――が、自明の理として「正しいこと」だと、文明人たちに内面化されているので、あたかも「死などない」かのように振舞っていられるのだ、と思う。


だから、生命の危機に瀕しているわけでもないパンピーが「死」について深そうに考える姿勢が、ヘンに見えるのだろうきっと。ハイデガーでいえば、「非本来的」ありかたとかいうらしいけど。


じゃあ、このトピックで語られていることを適当に類型化してみる。他人の積極的な死(=自殺)に対する姿勢のことだ。


1.助けたい(積極派)

罪悪感。後天的な衝動なのか、先天的な衝動なのかについては、わからない。


2.死んではいけない(消極派)

道徳的観点から、死ぬべきではない、とはいうものの、助けたいとまでは言わない。逆に「死んだらいい」ということで、間接的に「簡単に死ぬと考えるべきではない」というツンデレもいる模様。


3.徹底的な個人主義(消極派)

死にたきゃ死んだらいい。私は関係ない。死が救いになるかもしれない。


4.むしろ殺す(積極派)

いや、さすがにこれはなかった。


決定的に抜けている視点があると思うのだけれど、それは「誰が死ぬのか?」ということ。「私」と利害関係にある「世間」―――家族、友人、恋人などが死ぬのか?ただ共同体内の知らない一員が死ぬのか?それでけっこう話が変わってくるはず。


これを考える上では、「なぜ自分以外の他人が死ぬのがいやなのか」ということ。それはトピックにも書かれていたけれど、「自分との関係性が消滅することが怖い」ということ。なぜか?


そこに愛着があるから。逆にいうと、愛着がない場合は、どうでもよかったりする。理念レベルではなんとでもいえても、結局は(自分も含めて)愛着のない関係性には無関心・無感動なのだ。


遠い国で内戦が起こり、何人が死んだというニュースが流れて、親しい父母が殺されたかのようにむせび泣く人間がどれだけいるのか?結局、言挙げするまでもなく、人間はエゴイストです(無論、自分も含めて)。


結局、死のうとする人にどういう態度をとるのか、それに対する反応もすべて、「それまでのその人との関係性の履歴」によるのでしょう。今の時代はそういう濃い関係性が消えつつあるとのこと。


自分を鑑みて、たしかに自分には濃い関係性の人はほぼいないなあと思ったりもする。自分の発想にも「ダメだったらすぐに関係を切ればいい」というのがなんとなくある。


人間関係も含めて、「これからの自分」を考えてみたい。安心より一歩進んだ、信頼関係とかいうやつについても。