承認の主体を整理する

【生活世界7】

☆「どこ」から承認されるのか?


以前、自己理解には、共同体の善について考えなくてはいけない、と書いた。しかしながら、今の日本は、かなり人的流動性が高まっているので、どこからどこまでを「共同体=みんな」と見做すのか、分からなくなってきている。自己理解の前提があいまいなのだ。


自分の立場から言えば、リアルの周囲の人間とは大して親しくない代わりに、スカイプなどを通じて、空間を無視した友好関係が成立している(気がする)。「仲間のためにはどういう善が設定されるべきか?」と言っても、なかなかピンとこない。せいぜい、スカイプを通じて、楽しく、役に立つ会話ができるような空気をつくることぐらいだ。


しかし、実際の周囲の人間関係では、自分の置かれた特殊な状況ゆえ、どこまで自分が誤解されているのか分からないので、それを許容するには、人を頭から信用しない。周囲の人間から、大きな誤解をされる可能性を受け入れるならば、彼らは、信頼できない、ということになる。


そんな状態なので、自分はどこから承認されるのか、という理解があやふやな状態になりつつある。


少なくとも、徐々に宮台真司氏の指摘する「脱社会的存在」になりつつある、という気がする。「承認なんてどうでもいい」、つまり、「周りの人間が、自分をどう思おうとどうでもいい。勝手にしてくれ」という状態だ。嫌おうと誤解されようと知ったことではない、という感じ―――反動形成というやつかもしれない。


所詮、他人―――信頼できない人(こちらを露骨に誤解する人)は、いくら開放的でおしゃべりなのでも、何を考えているのか分からない。あと○ヶ月、□年だけ一緒にいるという物理的拘束を受けるだけだ、と思うことが多い。


信頼できるかどうかは分からないが、自分と暫定的に仲良くしてくれて、ちょっと開放的な気分を味あわせてくれる限りで、「他人」はありがたい、というスタンスでいる。


かろうじて、「他人を殺すのが何故悪いのかわからない」という類の反モラルな言動から、自分を遠ざけているのは、初期仏教教義だと思う。どこから承認されるのか、という問いは、自分の場合、ここに大きな鍵があるように感じられる。


自分の頭の中に、「仏・法・僧」からの承認を得られるイメージを抱ければ、いいのだと思う。それこそ、自分が他人を信用しないくらいに強い気持ちで。難しい。


はじめの話に戻ると、「仲間への善を設定した上で、それを実践する」前に、誰が具体的な「仲間」なのか?という問題がある。初期仏教では、慈しみを全生命に向ける修行をするわけだが、具体的な「布施」――この前書いた「無財の七施」のようなもの――をする自分の「仲間」とは誰なのか?


そもそも「仲間」とは、なんなのか?カンタンには、こちらを「承認」(愛する、理解する、能力を認める)してくれる人ということになるだろうか。だとすれば、それはネット上で知り合った人か、一部の家族くらいしかいない。本当は、誰にでも布施をできたらいいのだろうけれど、いきなり聖人になろうというのは、無理な話だ。本当に聖人になったら、仲間による承認など要らなくなるんだろうけれど。


とりあえず、その限られた人的リソースと初期仏教の教義を用いて、せめて脱社会的な言動から、自分を食い止められれば、それで十分ではないか、と思う。それでダメなら、自分に効くレベルの向精神薬を飲んだらいい、と思う。


まとめ

☆仲間:承認(愛する・理解する・能力を認める)してくれる人
  他人:自分に無関心、あるいは露骨な誤解による敵意のある人

☆人的リソースと初期仏教教義を生活上、大事にする。