表現メディアを増やしたい

【生活世界1】


ブログを始めてみた。はじめた経緯を大風呂敷に書いてみる。


(いわゆる「自分語り」になることをあらかじめ断っておきます)


もともと文章を書くのは嫌いだった。子供の頃は、いちいち自分の体験を文章化するのが、大変な苦痛だった。


中学生のころから、自意識が肥大しはじめて、そこから「あふれだしそうな何か」を書き出そうと日記を始めた。


加えて、気づいたことをメモにすることをはじめた。いろんなことの細部を気にするようになった。


高校生時代は、諸事情からぼっちになっていたので、自意識が鎧のように重苦しいものになっていった。休み時間がくるのが怖かった。


何かに救済を求めているうちに、ネットを通じて、初期仏教の教義を知るようになった。そこで、そのサイトの内容を印刷して、自分なりに要約する作業を延々と続けていた。


そのうち、「思考枠」にこだわるようになり、それを自分なりに体系化して書くようになった。それはずっと孤独な作業だった。


どんどん思考を深める作業に没頭し、世間的な青春とはかけ離れたところで、なんとなく陰にこもる哲学者キャラになっていた。


専門学生となっても、それは続く。そして(不完全な)一人暮らしを始めてから、友達がいなかった自分は、かなり精神的に追い詰められるようになり、「人とのつながり」を切望するようになった。mixiをはじめた。


新潟県民だけれど、東京まで足を運び、オフ会に参加した。それを皮切りに自分なりに人間関係がゆっくりと構築するようになっていった。


mixiの日記にいろいろなことを書くようになり、ネットを通じて、不特定多数に「書く」ことの体験が徐々に蓄積されていった。


同意・反対・共感・敵意・無関心・エトセトラ・・・どんなレスポンスがくるのかまったく不明だ。その不明さが「不特定多数に書くこと」の怖さでもあり、よくわからない魅力でもある。


要するにまとめると、ひとりで考えたことを不特定多数にさらすことそのものが、「刺激」になっている。最近の脳科学において、重要な概念となりつつあるらしい言葉を借りると、「偶有性(確定的でもなく、ランダムでもない、中間の性質)」を帯びるレスポンスは、人の「期待」や「不安」を煽る。だからこそ、「刺激的」なのだ―――それがよいか悪いかは別にしても。


ネットで「書く」ことはざっくり言って刺激的だから書く、というだけなら、中途半端な個人史なんて書かなくてもいいのだけれど、ネットに「書く」まで、ずっと自分の殻に篭っていたということをはっきり確認しておきたかったので書いた。


別にネットそのものが自分を救済したなんて、見当外れなことは思っていないけれど、ネットという媒体を利用していなければ、今の自分はなかったとだけは分かる。


じゃあ、どうしてブログなのか?mixiだと、自分の場合、ついつい習慣上、当たり障りのないネタだったり、かなり硬派なネタを選んで書いてしまう。twitterだと、伝えられることが短すぎて、物足りない。だから、ブログにした。


と長々書いたけれど、


今後は、自分がちょっと興味を持ったネット記事やら、体験について、哲学的に掘り下げた文章を書いてみます。あえて読んでもらえるように、露出的で挑発的なネタを書いてもいいのだけれど、それだとなんだか恥ずかしい気もする。


でも、あえて書いてみると、自分が頑丈に秘密にしていたことが、凡庸な「ネタ」に過ぎなかったりするかもしれない。こんなことを考え出すのも、肥大化した自意識のせいだきっと。


半径1メートル以内に収まる卑近な話題から、もっと射程の広いカタイ話題までいろいろ書き連ねようかなーとイメージしてみたところで、寝ることにしよう。